学習のすすめ











(一)カール・マルクス、その生涯。

 一八一八年五月五日、ドイツ第一の商工業地方であったライン州の町トリールに、自由主義的弁護士を父に、子供九人の第三子で次男として生まれた。父はこの子を弁護士にしようと、一八三五年にボン大学、翌三六年にはベルリン大学へと進めた。だがマルクスは哲学と歴史に興味を持ち、これにエネルギーを注いだ。ドイツは哲学の国であり、全国どこの大学でも、当時はヘーゲルの弁証法、フォイエルバッハの唯物論が流行のように議論されていた。ベルリン大学の学生運動は必然的に左右両派に分裂し、左派は青年ヘーゲル派を形成、マルクスは左派の中心にすわった。
 一八四一年にここを卒業するときマルクスは完全にヘーゲルとフォイエルバッハを止揚していた。すなわち、ヘーゲルは「万物はすべて発展、前進、爆発、収れん、変革されていく。その原動力は対立物の闘争である」というこの弁証法的方法論は正しかった。だがこれを観念の世界に閉じ込めるのに対し、マルクスは「宇宙と人類世界は物質の運動であり、この物質の運動自体が対立物の存在と闘争であり、これが人間の頭脳に反映していく。そしてここから生まれる真理によって、物質の運動は発展、前進、爆発、転換(革命)、収れんされていく」という弁証法的哲学を完成させた。またフォイエルバッハにおいては「神とは人間が作ったもので人間の世界である」という唯物論的発想は正しいが、その人間を社会的人間としてフォイエルバッハは見なかった。マルクスは「人間とは生産力と生産関係における社会的人間のことである。人間の意志や認識とはその社会的存在が人間の頭脳に反映して生み出す。その人間の意志や意識が物質的存在を支配していく」という哲学的唯物論に達した。こうしてマルクスはヘーゲルとフォイエルバッハを止揚(その正しい、核心部分を引き継ぎつつ、未解決、不十分、不徹底部分を解決)するのである。マルクスはこうして哲学的弁証法的唯物論を完成していった。マルクスはまず哲学から出発した。だからエンゲルスは後で「もしもドイツ哲学がなかったならマルクス主義は生まれなかったであろう」(一八七五年『ドイツ農民戦争』)と語っているのである。
 ベルリン大学を卒業したマルクスは、その哲学思想原理にもとづいて実践と行動を開始した。一八四二年一月、ライン新聞の主筆となり革命運動に身を投ずる。当時のライン地方は農民一揆、農民暴動、武装した農民戦争が激発していた。重税、抑圧、土地取上げに農民の怒りが爆発しており、ライン新聞は自由民権運動の旗手として闘っていた。マルクスは戦闘的論文で農民運動を支持し、プロレタリアートとの同盟を訴えた。エンゲルスもこの当時ライン新聞に寄稿しており、ここでマルクスの名を知った。政府はこの新聞とマルクスを危険分子として、一八四三年五月、新聞の発行禁止と、マルクスを国外追放処分にした。
 一八四三年六月、マルクスはドイツを追われてパリに行く。このとき、マルクスの姉・ソフィーの友達で、当時トリールの町の政府参事官で貴族出身の娘・ジェニーがマルクスについて行った。マルクスとジェニーはベルリン大学時代から知り合い、婚約中だったが、状況が二人を結婚させた。ここから二人の苦難の道がはじまる。貴族の出、美貌、多くの婚約の申し込み、このすべてを捨てて四つ下のマルクスのもとに走らせたのは、あふれる情熱とその才気であった。その後のフランス、ベルギー、イギリスへの逃亡生活。その晩年にいたっては、貧困と病気、子供たちの相次ぐ死亡、弾圧と迫害の中でもひたすらマルクスを助け、悪筆で有名なマルクスの原稿は全部ジェニーが清書し、エンゲルスや出版社に運んだ。一八八一年十二月二日、六十七歳で肝臓病で死んだジェニーは、マルクスとの一生に満足し、生涯に何の悔いもないことをエンゲルスに語っている。パリに移ったマルクスは一八四四年二月に『独仏年誌』という革命的出版物を発刊するが、これにエンゲルスも原稿を書き、その関係でエンゲルスはその八月、パリにマルクスをたずね、二人は初めて思想的・政治的に完全に一致した。このとき二人の交流は十日間にわたったが、エンゲルスは後で「この十日間程人生でこんな楽しいことはなかった」と語っている。以後二人は四十年間にわたる終生の同士的友情が交わされるのである。そしてマルクスはドイツ政府の強い要求によりパリからも追放され、一八四五年二月にはベルギーのブリュッセルへ、さらにベルギーからも追放され、一八四九年八月ロンドンに移った。ここがマルクスとエンゲルスにとって終生の地となった。
 パリからブリュッセルへ、そしてロンドン時代の四十年間、マルクスとエンゲルスは闘いの連続であった。ドイツの農民戦争、イギリスの労働運動とチャーティスト運動、一八四八年の二月から三月にかけてのフランス二月革命とドイツの三月革命。そしてヨーロッパの社会主義者、民主主義者、自由人権主義者たちの革命的運動への参加と指導。これらの組織化と理論上の寄与と貢献へ、休む間もなかった。
 一八四六年の初頭にはブリュッセルに『共産主義通信委員会』を組織。これは一八四七年六月の『共産主義者同盟』へと発展した。同盟の要望にもとづき、マルクスとエンゲルスは同盟の綱領たる『共産党宣言』を翌年の二月に書き上げた。一八六四年九月には労働運動の国際的統一組織たる第一インタナショナルを結成。そして一八七一年にはパリコミュ〜ンがやってきた。マルクスは全力をあげてこれに取り組み、ここから学んでプロレタリア独裁の理論を完成、これは『フランスの内乱』(一八七一年六―七月)となり、ここからの実践的教訓としての『ゴータ綱領批判』(一八七五年)を通じてドイツ労働運動を指導した。
 マルクスは一八五〇年頃から体調を崩し、ぜん息と肝臓病に悩まされ、長年の貧困と激務によって体はがたがたになっていた。当時マルクスはエンゲルスから経済的支援を受けていたのを心苦しく感じていたので、感謝をこめて手紙を書いたが、その中でつぎのような自分自身の人生観をのべている。「私はこの世に生まれてきた以上価値ある仕事をして生きたい。それはプロレタリアの歴史的使命とプロレタリアの解放と、人類の未来を明らかにすること。このことに全力を注ぎたい」と。エンゲルスはこのマルクスに深い同志愛をささげた。
 そしてマルクスにとってはどうしても完成しなければならないのが経済学批判、その集大成たる『資本論』であった。この頃になるとエンゲルスは長男として父親から相続した紡績工場と貿易商社を処分し、それをマルクスの資本論完成に注ぎ込んだ。そして一八六七年九月に第一巻が出版。以後マルクスは病気と闘いながら第二巻、第三巻のための準備をつづけた。一八八三年三月十四日、いつものとおりエンゲルスがマルクスの家に来た。二年前にジェニーが死んでからすっかり老け込んだマルクスを心配して、エンゲルスは近くに移り住み、つねにマルクスを訪ねた。この日、十四時四十五分、マルクスは机の上の原稿に頭をのせて眠っていた。エンゲルスが手を差しのべたがマルクスは力尽きてそのまま目を覚ますことはなかった。六十五歳のマルクスは永遠の眠りについた。六人の子供のうち、三人は生まれてすぐ死に、長女も二カ月前に死に、残った次女のローラ、四女のエリナ、そしてジェニーの娘の頃から付き添って世話をしつつ、生涯を共にしたヘレーネ・デー・ムートの三人をエンゲルスは引き取り最後まで面倒を見た。そして、マルクスの頭の下に残っていた資本論のための原稿はみなエンゲルスが整理して、第二、第三巻へと出版された。娘たち二人も生涯を社会主義運動に身をささげた。
 三月十七日、エンゲルスはロンドン郊外のハイゲート墓地にマルクスを葬ったが、その告別の日には十四人が参加。エンゲルスはマルクスにつぎのような告別の辞を送っている。
 「多くの未完成の仕事に当面し、それを完成することの不可能なことを思いつつ、タンタロスの苦しみ(註・ギリシャ神話の物語で、国王・タンタロスは神の怒りにふれて奈落の底に突き落とされ、永遠の飢えと渇きと恐怖のなかで死んだという苦しみ)に悩まされながらも生きることは、マルクスにとっては、いま彼の運命のうえに落ちてきたこの平和な死にくらべると、千倍も恐ろしいことであったろう」
 「それはともあれ、人類は頭一つだけ低くなった。人類がもたされていた、もっとも天才的な頭一つだけ」
 「それにもかかわらず労働者階級の最後の勝利はうたがうべくもない。しかし回り道が、ただでさえさけられないこの回り道が、いまや大変多くなるだろう。しかしわれわれはわれわれの力でやっていこう。他にどんな方法があるというのか。勇気を失うまい」と。
 そしてエンゲルスは一八八八年一月三十日に書いた『共産党宣言』英語版序文の中で次のように書いている。「この二十五年間に事情がどんなに大きく変化したにしても、この宣言の中に述べられている一般的な諸原則は今日においても依然として正しい。あちこちで、細部の点では改善の余地があるであろう。これらの諸原則を実際にどう適用するかということは、宣言そのものが述べているように、いつどこでも、当面する歴史的条件によって決まるであろう」と。

 つまりエンゲルスはこのように、マルクス主義者はつねに理論上の原則を堅持しつつ、実践的には歴史的事情と条件によってその方法上においては止揚≠ケよと言っているのである。