学習のすすめ











(二)一八七九年の出来事、そのエピソードの中にマルクスの生きた姿がある。歴史上の事実を通じてマルクスの人間性、人格、人間像をしっかり認識し、われわれの中にもそれを確立しよう!

 マルクスについてのエピソード、出来事を書いたのは、イギリスのジャーナリストで、伝記作家で、ラジオ・キャスターで、コラムニストとして名高い、フランシス・ウィーン氏であった。氏はドイツを追われてロンドンで生涯を終わった赤い革命家マルクスのことを知り、大いに興味をもち、時間をかけてあらゆる資料をかき集め、マルクスの生涯をくわしくまとめて出版した。これが『カール・マルクスの生涯』(一九九九年刊行)であり、日本語版は二〇〇二年に朝日新聞社から出版された。著者は一人のジャーナリストとして、思想性、政治性を離れて、客観的事実だけを、きわめて実務的に、たんたんと記録していった。したがってこういう作品は読む人によってそのとらえ方が違ってくる。この種類の本、特にマルクスに関するものは、本当のマルクス主義者、マルクス主義の思想と理論の全著作を読み、身につけていないと、客観的事実の中にふくまれているその本質、背景を正確に理解することは難しい。マルクス主義を身につけていないと、この本は単なる平凡な読み物に終わる。われわれ真のマルクス主義者は、客観的事実の背後にある本質的なもの、その真実を知るために眼を皿のようにして読む。そのとき深い感動が全身にみなぎる。著者が書いた事実の中のマルクスを語るその典型的一例をここに紹介する。
 それは一八七九年のことであった。この時代のマルクスは晩年であり、病気がちであった。ジェニーも病床にあり、二人枕を並べることは常であった。一八八一年にジェニーは死んだし、一八八三年一月には長女も死んだ。ヨーロッパ労働運動は退潮期に入り、一八七一年のパリ・コミューンの敗北、一八七五年にはドイツ労働運動も右派が支配し(『ゴータ綱領批判』)、一八七六年には第一インターはついに解散してしまった。マルクスにとって、この時期はまさに内外共に苦難のどん底にあった。こんなときにこの出来事がおこった。このエピソードと物語について、フランシス・ウィーン氏はつぎのように記録している。
 イギリスの王室に連なるある一族の要望に従って、イギリス政界の大物が呼びかけ、政界、財界、官界、言論界の有志が集まり、豪華な宴会場にマルクスを招待して昼食会を開いた。その意図は、過激な思想とスローガンでヨーロッパの各国政府を恐れさせている赤いテロリストの頭目たるマルクスなる人物がロンドンに住みつき、いまや老いている。一度招いて話を聞いてみてはどうかという、興味本位と好奇心が背景にあった。マルクスはこの招待を受けて出席をした。
 <マルクスが自ら起草した『共産党宣言』の最後には、共産主義者の心構えとしてつぎの一文がある。「共産主義者は自分の姿を隠すことを恥とする。……支配階級をしてプロレタリア革命を前に恐怖させよ。……プロレタリアはこの革命によって失うものは何もない。得るものは全世界である」と宣言している。つまり、ブルジョアとその権力はプロレタリア革命によって自己の名誉と地位と財産を失うことに対する恐怖におののいている。その自分の恐怖を共産主義への恐怖にすりかえているのだ。だからわれわれは何も恐れることはない。いつでも、どこでも毅然たれ、ということである。マルクスは共産党宣言で示されている共産主義的心構えのとおりに行動した>
 さて、参加者一同が待っているシャンデリアの間にマルクスが姿を見せたときみな「おや!」と思った。それは予想していた「恐しい怪物」ではなかった。意外に小柄で、色浅黒く、白髪、白いあごひげ、絹のような黒い口ひげ、静かな風情の普通の人間であった。
 〈『共産党宣言』の書き出しはあの有名な言葉「一つの妖怪がヨーロッパ中を動きまわっている……共産主義という妖怪が。古いヨーロッパのすべての強国が、この妖怪を退治しようとして神聖同盟を結んでいる」というものである。この一文を参会者はみな知っているので、どういう「妖怪」かといろいろ想像していた。ところが姿を見せたその人物をみて「おや!」と思った、というわけである〉
 〈ブルジョア観念論者たちはみな「外因論」者である。つまり、外見でものごとを判断する。反対に弁証法哲学は「内因論」であり、内因、つまり、すべては内部の力であり、人間においてはその人物の思想・政治意識であり、人間の心、精神、エネルギーであり、この内因が決定権をもっている。これが弁証法哲学の内因論である。一国の外交、対外政策もすべてはその内政の延長であり、反映であり、クラウゼヴィッッの戦争論で言う、戦争は政治の延長であるというのはこのことである。そしてこの日の宴会場は、内因論によって小柄なマルクスが巨大なマルクスに変わる場となった〉
 宴会がはじまり、雑談がつづき、やがて出席者からマルクスへの質問や、政治的意見が出始めたころから、会場の空気は変わってきた。マルクスはどんな質問に対しても、まじめに、真剣に、そして明快に、理路整然と答えた。それはどんな質問に対してでもそうであった。各方面のあらゆる問題に対するその豊富な博学、知識、知的水準の高さに一同は驚いた。

 〈マルクスがエンゲルスと共同して執筆したフォイエルバッハを批判した文書『ドイツ・イデオロギー』(一八四五年)の中で言っているとおり、観念論者は問題の枝葉末節と表面的現象だけを論ずるが、われわれ唯物論者はそうではなく、哲学思想にもとづく根本原理、根本原則と核心をつかみ、そこから一切を解明する。だからマルクスにとってはあらゆる問題が明快だったのである。哲学こそが万物の知的根源であった〉
 そこで出席者のなかからきびしい質問が出されてきた。マルクスが主張するプロレタリア革命なるものはみな失敗しているではないか。労働運動も退潮してもう終わりではないか、という。そのときマルクスの眼は鋭く光り、態度は毅然として、きっぱりと答えた。歴史というものはけっして一直線に進むものではない。ヨーロッパの歴史、イギリスの王室の歴史をみても、すべては曲がりくねって進んできた。しかし歴史は科学である限り、必ず到達すべきところに到達するのだ、と確信的に、厳として答えた。
 〈マルクスのおかれていた当時の情勢は最大の苦境であったが、明確な思想意識と科学的歴史観によってびくともしなかった。そしてマルクスが確信したとおり、その後歴史は第二インターの結成、ロシア革命の勝利、帝国主義崩壊という歴史時代が到来したのであり、思想が物質的な力となって歴史は動いていくのである〉
 そうすると、出席者の一人が、生産性が高まり、国が豊かになり、貧しい人びとへの福祉政策が整備されれば社会は安定するのではないか、と言ったとき、マルクスは、それは不可能だと言い切った。なぜなら、資本主義の経済法則として、その国家維持と権力機構の拡大、そして戦争による軍事費の増大で福祉への余裕はなくなるからである、と。
 〈現代世界の時代がマルクスの証言どおりである。格差社会は一国から世界的にますます拡大していく。戦争は終わることなく、軍事費は拡大しつづける。人民大衆は発展し、変化していく文化水準に追いつくために、ますます強く、多く、激しく働かねばならなくなっており、「ワーキング・プア」(働けど働けど楽にならない)問題が大きな課題になっているという現実がマルクスの予言の正しさを証明している〉
 昼食会が終わったあと、出席者一同が誠に感心したのは、マルクスの発言は誠に、すべてにわたって、厳然としており、確信に満ちており、いささかも自説を曲げることはなかった。しかしその言葉使いは誠にていねいで、出席者の誰に対しても粗野でなく、辛辣(らつ)な表現はなかった。そして一貫して礼儀正しく、イギリス王室にかかわる話題においても常に敬語を使った。

 〈マルクスの態度の中にマルクス主義がある。その名著『経済学批判・序言』(一八五九年)、『資本論・第一巻・序文』(一八六七年)のなかで明確に述べているとおり、対立と抗争、怒りと憎しみは階級的なものであって、個人的なものではないのである。とくに『経済学批判・序言』の中の「人間は自分の意志とは無関係に目の前にある生産関係に遭遇する」というこの一文の意味をよく認識しなければならない。つまり、自分がどういう境遇に生を受けたかは、それは自分の意志ではなく運命であり、誰の責任でもない。故に個人的敵対は人間道徳に反する。すべては階級的なものであり、階級対立、階級闘争、階級的運動の中における対立と抗争こそ社会変革と歴史の進歩である。マルクスにとってこの日の催しはあくまで私的性格の場であったゆえに、このような態度に徹したのであった〉
 すべてが終わったあと、出席した一同に共通したマルクスへの感情は、すべてがそう快で、個人的にはマルクスへの不快感や悪感情は一切なかった。そして機会があれば、もう一度会って話をしてみたい、というのが共通の認識であった。
 〈階級的に激しい怒りと闘争。だが個人的には極めて親愛の情。すべてに対立物の統一としての二つの側面があり、いつ、どこで、どのように、二つの内の一つの側面が主要な側面として発揮されるのか、それは運動と闘い、情勢と条件が決定していく。ここに弁証法的哲学がある〉
 マルクスは哲学と科学に関する思想と理論に徹して行動した。すべてに哲学科学思想と理論を貫いた。
 マルクスはどんな苦境にあっても哲学科学思想と理論を確信していた。故に常に明快、厳然、毅然、断固としていた。
 真のマルクス主義者は、人格、人間性、人物像としてのマルクスをよく認識し、マルクスに対する尊敬と敬愛の念を堅持してマルクスに学ばなければならない。