学習のすすめ











(三)フリードリヒ・エンゲルスとその生涯。すべてをマルクスにささげつつ、思想的・政治的・理論と実践において、常に一体となったその一生のなかにこそ、二人は一つであり、二人を切り離すことはできないことの証明がある!

 マルクスの在るところ常にエンゲルスがいた。そしてエンゲルスの一生で明確なとおり、この二人は、思想的、理論的、政治的、人間的に、完全に統一された一つであった。このような歴史的事実を確認すれば、マルクス主義を論ずる人びとのなかにある、二人を分離したり、分割したり、あるいは対立させたりするような発想は生まれてこないはずである。客観的事実、歴史的事実をはっきり確認し、二人を一つとして認識するよう強く訴えたい!
 マルクスはエンゲルスについて、一八五九年一月に書いた『経済学批判・序言』の中でつぎのように語っている。
 「エンゲルスと私は、経済学批判に関する彼の天才的な叙述が『独仏年誌』に発表されて以来、いつも互いの手紙で意見の交換を行ってきた。彼は私とは別の道を通って同じ結論に達した。彼が一八四五年の春以来、私と同じようにブリュッセルに移り住むようになってから、私たちは、ドイツ哲学のイデオロギー的見解と対立する私たちの見解を共同でまとめあげることにした。実際に私たちはこのことを通じて、これまでの古い哲学思想を完全に清算することができた」(註・これがマルクス主義哲学の原点となり、出発点となった一八四五年発表の二人の共著『ドイツ・イデオロギー』である)。
 マルクスが語っているとおり、二人はまったく異なった道を通った。まさに弁証法哲学の示す「対立物の統一」そのものである。まずその風貌(ぼう)から違っていた。エンゲルスは大柄な偉丈夫であった。二十一歳の頃にはドイツ陸軍に入隊して軍事教育を受け、これを武器に三十一歳頃にはドイツ農民戦争(農民一揆)に参加指導し、そして軍事科学にも長じていたので後には「将軍」というニックネームもついた。彼はマルクスと違って高等教育も、大学教育も受けず、すべて独学で学び、十二カ国語を使い分け、その博学多識ぶりから「百科事典」と呼ばれた。
 エンゲルスはマルクスより二年後れの一八二〇年十一月二十八日、ドイツのライン州北部にある工業都市バルメンで、大きな紡績工場と商社を経営する裕福な一家で八人兄弟の長男として生まれた。異常なほど熱心なカトリック教徒だった父親は、この長男を一家のあと継ぎにすることを決め、きびしいしつけをした。幼い頃から工場内を連れ歩き、仕事になじませようとした。エンゲルスは広い工場内を飛びまわり、高音で激しく動くいろいろな機械に目を見張り、次々に繰り出される各種の織物に強い好奇心をもった。こうした幼児期の環境が後年のエンゲルスにその行動力と頭脳労働を作り出した。
 向学心の強い青年になったエンゲルスは父親とその宗教に反抗して、二十歳のとき自ら志願して一年間、ドイツ陸軍砲兵連帯に入隊。軍事訓練の合間をみつけてはベルリン大学の聴講生として、哲学と科学の究明にとりくみ、マルクスと同じ青年ヘーゲル派に属してドイツ哲学論争に参加した。こうしてエンゲルスはフォイエルバッハ唯物論を究明し、ヘーゲルの弁証法を乗り越え、マルクスと同じ哲学科学思想を獲得した。この科学的哲学思想があの名著『自然弁証法』(一八七五年)、『空想から科学への社会主義の発展』(一八八〇年)などに結びつくのである。その当時マルクスはベルリン大学を卒業し、ライン新聞でドイツ農民戦争を闘っており、エンゲルスはこれに投稿してマルクスの名を知った。そしてエンゲルスは三十一歳の頃には直接農民戦争(農民一揆)に参加、武器を持って戦っている。
 父は何としても実業の世界に引き入れようと、一八四二年にはこの長男をマンチェスターに送り出した。マンチェスターはイギリス最大の工業都市で、綿織物工業が発達しており、イギリス産業革命の発祥地でもあった。父はここに共同出資して綿織物工場と貿易商社を持っていた。しかしエンゲルスはこの機会を利用して、市の図書館に通いづめで勉学、イギリス古典経済学を究明。パリに行ってはフランス社会主義を研究した。その成果が『イギリスにおける労働者階級の状態』(一八四五年)となった。
 そのころマルクスはドイツを追放され、ジェニーと共にパリに住み、ここで革命的出版物『独仏年誌』を発行、エンゲルスはこれを知り、ここに『国民経済学批判大綱』を投稿、マルクスはこれを大いに評価、このことを機会にエンゲルスは一八四四年八月にイギリスからドイツへの帰途パリに立ち寄り、マルクスと交流した。二人ははじめて顔を合わせ、大いに議論し、それは十日間にもわたった。そしてここで二人の世界観、哲学、経済学、社会主義について、すべての面で完全に一致した。エンゲルスはドイツに帰ってすぐに手紙を書き「パリの十日間は私の人生の中で最高の喜びと楽しいひとときであった」とマルクスに書き送っている。このときから四十年、一五〇〇通にのぼる二人の往復書簡のはじまりとなった。そしてここから二人の固き友情と共同の事業が開始されたのである。
 一八四五年一月、パリで革命的活動をしていたマルクスにフランス政府は二十四時間以内の国外追放命令を出した。これはドイツ政府の要求によるものであった。冬の寒さ、金もなく、生後八カ月の長女を抱え、どこに行くか、困り果てていたとき、これを知ったエンゲルスは直ちにベルギーへの脱出、ブリュッセル行きを手配、自らも後にブリュッセルへ行った。一八四五年二月二十一日付のエンゲルスからマルクスへの手紙には「少なくとも政府の卑劣な行為で君を経済的に困らせるということは絶対にさせない」と書いている。以後エンゲルスは父親の経営活動へ参加した一八四五年代から一八七〇年代までの期間、それはマルクスとの共同行動のための資金づくりの期間となった。
 一八四五年、マルクスと共著した『ドイツ・イデオロギー』の出版、「ブリュッセル共産主義通信委員会」の設立。そして一八四九年八月にはマルクスはベルギー政府からも追放され、ロンドンに脱出するが、すべてエンゲルスが手配した。一八四七年の「共産主義者同盟」の結成と『共産党宣言』の起草、一八六四年の「第一インタナショナル」の創立、一八七一年の「パリ・コミューン」の対応へと二人は一致して行動した。
 それとあわせて、エンゲルスは独自の活動も展開した。一八四八年のドイツ三月革命、一八五〇年のドイツ農民一揆への参加。それと共に、自らの著作と執筆活動も展開、多くの名著を残した。『国民経済学批判大綱』(一八四四年)、『イギリスにおける労働者階級の状態』(一八四五年)、共産党宣言のための学習書である『共産主義の原理』(一八四七年)、『ドイツにおける革命と反革命』(一八五一―五三年)、『ドイツ農民戦争』(一八五一年、一八七五年)、『自然弁証法』(一八七五年)、『猿が人間になるにあたっての労働の役割』(一八七六年)、『反デューリング論』(一八七七―七八年)、『空想から科学への社会主義の発展』(一八八〇年)、『家族・私有財産・国家の起源』(一八八四年)、『ルードヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』(一八八六年)などである。エンゲルスの著作で目を引くのは、全宇宙と人類の歴史を、永遠の過去から永遠の未来に向かって、常に弁証法的法則のもとに発展、前進しつづけるという科学思想である。
 一八七〇年代からのエンゲルスは父親からの遺産を整理して、マルクスの活動と生活に注ぐ一方、病身のマルクスを案じて近くに居を移して面倒を見るようにした。そして第一節のマルクスの生涯の項でも明らかにしたように、その死を弔い、遺児たちの引き取りなど、すべてを取り仕切っていった。
 こうしてマルクスが残した仕事として『資本論』第二巻を一八八五年に、第三巻を一八九四年に完成、出版した。さらには一八八九年に結成された第二インタナショナルの指導に最後まで力を注いだ。
 敗北的修正主義者が出したマルクスの本では、しばしばマルクスとエンゲルスの関係について誤ったことを書いている。「この二人は完全に一致していたわけではなかった」とか。あるいは「エンゲルスの方が正しかった」とか。「エンゲルスはマルクスのことを完全には理解していなかった」とか、である。マルクスが死んだあとすぐエンゲルスは親しい友人のヨハン・フィリップ・ベッケルに手紙(一八八四年十月十五日付)を書いたが、その中で彼はつぎのように書いてる。

 「不幸というのはむしろ、僕たちがマルクスを失っていらい、僕が彼の代わりをつとめなければならないという点にある。僕は一生の間、それをなすのが僕の本領であるところの仕事、すなわち第二ヴァイオリンを弾くということをやってきたのであって、そしてまた僕は自分の仕事を全く相当にやりとげたと信じている。そして僕は、マルクスのようにあんな抜群の第一ヴァイオリンをもっているのを嬉しく思っていた。だが、さて僕が急に理論の仕事においてマルクスの位置を引き受けて、第一ヴァイオリンを弾かなければならないという段になると、僕は勢い失策なしにその仕事をやり通せない。しかも、僕ほどにこのことを痛感しているものはないのだ。そして時勢が多少とも動きだすというようなことになれば、われわれはマルクスの死によってどんな損失をしたかを、初めて本当に悟るであろう。急速に処置せられなければならぬような万一の瞬間にも、つねにそれによって彼が事物の核心をとらえ、直ちに決定的な急所につっこんでゆく洞察力、それはわれわれの誰もがもっていないものである。なるほど、平穏無事のときには、事件がときどきマルクスに反して、僕の方が正しかったことを立証したことも、あるにはあったが、革命的瞬間には、彼の判断にはほとんど一点の非も打ち難きものがあった」(向坂逸郎著『マルクス伝』新潮社一九六二年五月刊)。二人の間の関係についてあれこれ言う敗北的修正主義者はこの一文をどう読むのであろうか。

エンゲルスのマルクスに対する同志愛と友情、そして生涯を通じたその人間性と人生観について!

 エンゲルスは一八九五年のはじめに末期的食道ガンの進行が発見され、八月五日午後十時半に息を引き取った。七十四歳であった。エンゲルスは個人的には家族をもたなかったので、マルクスの遺児たちが最後まで看取った。遺産はマルクスに連なる人びとに分配された。遺言により、遺体はロンドンに近いワーキング火葬場で灰にされ、それはイギリスとヨーロッパ大陸を結ぶ海峡(イギリス海峡)にまかれた。告別式などは禁じられていたが、社会主義運動の幹部や活動家たちは八月十日、ウォタールー駅の構内で追悼の集まりを開催、多くの社会主義者や第二インターの幹部が集まった。
 エンゲルスの生涯で特筆すべきは、その人間性である。マルクスと同じくらいの知的水準をもちながらも常にマルクスを前面に立て、自分は一歩後に下がり、彼が言うところの「犬の仕事」として、マルクス主義運動の「資金づくり」に精を出した。マルクスに対するこのような態度はつぎの一文を見ればよくわかる。
 「共産党宣言を貫いている根本思想は、ただマルクスだけに属するものである。―そしてこの思想は、ダーウィンの学説が自然科学の進歩の基礎となったと同様に、歴史科学の進歩の基礎となる使命をもつものである」(『一八八三年の共産党宣言ドイツ語版への序文』一八八三年六月二十八日)
 「『共産党宣言』はマルクスと私の共同の著作であるが、私は、その核心をなす基本思想はマルクスのものであることをのべる義務がある」(一八八八年一月三十日『共産党宣言』英語版への序文)。
 一八五〇年代に入り、ヨーロッパの労働運動は高揚期を迎え、一八八九年七月には第二インタナショナルがパリにて結成され、一八九〇年五月一日、全世界の労働者がいっせいに決起して「万国のプロレタリア団結せよ!」との共産党宣言のスローガンのもと、世界的規模のメーデーが決行された。エンゲルスはロンドンのメーデーに参加「ああ、マルクスが私と並んでここにたつことができ、これを自分の眼で見ることができたなら!」と叫んだ(『共産党宣言・ドイツ語版への序文』一八九〇年五月一日)。
 マルクス主義の正しさを、歴史上はじめてロシア革命によって立証したレーニンは、一九一三年に書いた『マルクス・エンゲルスの往復書簡について』のなかで、二人の固き友情についてつぎのように語っている。
 「いにしえの伝説は、人を感動させる友情について多くの物語を伝えている。ヨーロッパのプロレタリアートは、自分たちの科学的理論はマルクスとエンゲルスという二人の学者であり、革命家であるこの人によってつくりだされたが、二人のあいだの友情は、人間の友情について古人の語っている最も人を感動させる物語のすべてを凌駕(りょうが)するものであった。エンゲルスは、常に自分をマルクスの後ろにおいた。彼はある旧友への手紙に書いた。マルクスのいたあいだは私は常に第二バイオリンを弾いた≠ニ。生前のマルクスに対する彼の愛情と、死後のマルクスに対する彼の崇敬とは、誠にかぎりないものであった。この峻厳な闘士であり、厳格な思想家であった人の胸には、深く人を愛する心がやどっていたのだ」と。