学習のすすめ











 万物を支配する根本原理は哲学であり、科学と結合した絶対的真理は唯物論である。マルクス主義的唯物論の核心は『フォイエルバッハにかんするテーゼ』にある。哲学学習の出発点をこの「テーゼ」に求めなければならない。

 エンゲルスは一八八六年に『ルードヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』を書いたが、その中でつぎのように言っている。「物質と観念の相互関係に関する認識において哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂した。自然に対する精神の根源性を主張し、したがって結局はなにかしら世界創造を想定した人びとは……観念論の陣営をかたちづくった。自然を根源的なものとみなした他の人びとは唯物論のいろいろな学派に属した」と。エンゲルスの説くとおり、哲学は唯物論か、観念論か、であってその中間はありえない。つまり、自然と物質と存在と事物を一切の土台としてみる唯物論か、反対に人間の意識、精神、思考を一切の土台としてみる観念論か、である。そしてこの観念論と対立する唯物論を完成させたのがマルクスであった。そのときマルクスは思いつきや、突然変異ではなく、当時のドイツ哲学界の最高峰であったヘーゲルとフォイエルバッハを徹底的に究明し、これを止揚して(肯定的部分は引き継ぎ、弱点や誤りを克服して、正しいものに前進させて)完成させた。このことは〈学習のすすめ〉第一節の、マルクス・エンゲルスの生涯でくわしく解明されている。こうしてマルクスの革命運動とその生涯は哲学からはじまった。だからエンゲルスは一八七五年の『ドイツ農民戦争』のなかで「もしもドイツ哲学がなかったらマルクス主義は生まれなかったであろう」と書き、マルクスは一八四四年二月に執筆した論文『ヘーゲル法哲学批判・序論』の中で「哲学はプロレタリアートの中にその物質的な武器をさがしあてる。同時にプロレタリアートは哲学のなかに精神的な武器をさがしあてる」と書いた。マルクスは同じ文書の中で「思想が大衆をとらえたとき、それは物質的な力となる」と言っているのはこのことなのである。哲学とその思想こそが万物を動かす原動力なのである。

 哲学の役割についてエンゲルスは一八七五―六年に執筆した『自然弁証法』のなかでつぎのように書いている。「現代の自然科学は、運動の不滅の命題を哲学から採用しなければならなかった。それなしには自然科学は存在できなかった」と。このことを立証した現代の科学者はたくさんいるが、二〇〇二年度のノーベル物理学賞を受けた東大特別栄誉教授の小柴昌俊氏は、二〇〇三年二月十七日付の日本経済新聞『私の履歴書』の中で「私たち現代の科学者が実験と研究によって証明していることがらはみな、古代ギリシャの哲学者たちが、宇宙のあり方について予言したことを、一つ一つの実験と研究で科学的に立証している」と語った。まさにエンゲルスが言っているとおり、哲学ぬきに科学はありえないし、科学は哲学(理論と思想)を導きにして進む。ではこの偉大な哲学を学ぶためには何からはじめるべきか。これこそ『フォイエルバッハにかんするテーゼ』である。

 ところが〈学習のすすめ〉第一節で紹介した、マルクスを再読しようという目的で出版されたマルクス本の代表作の一冊『マルクスのアクチュアリティ』の著者はその中でつぎのように書いている。「フォイエルバッハに関するテーゼは、たぶんその短さと歯切れの良さによって長く愛好されてきた。マルクスに関心をもったことのある人なら、だれも一度は引用文という形でどこかで目にしたことがあるはずである。……このテーゼというのは、マルクスが一八四五年の春にノートに書き留めていた一種のメモである」と。ごらんのとおりこの著者は「テーゼ」について語るとき、簡単に、茶化し、単なるメモだというだけであって、エンゲルスがその著『ルードヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』で明確にした、この「テーゼ」のもつ歴史的意義と、綱領的意義と、マルクス主義的哲学の核心的意義については何一つ語らないのである。それはつまり、この著者は、この「テーゼ」のもつその価値がわからないのである。

 「寸鉄人を刺す」という言葉がある。光り輝く短い言葉のことである。短いがその中には人の心を揺り動かす力強く深遠な意味がふくまれているということである。われわれ真のマルクス主義者は、マルクスの短い言葉の中にある、深く、光り輝く、その思想を学びとるだけの思想・政治能力を持たねばならない。マルクス主義の研究家として名高い人びと自身が、この「テーゼ」に関してかくも浅薄なのはなぜか。これこそマルクス読みのマルクス知らずであり、マルクスを読めないのであり、読んでもわからないのであり、マルクスの生涯を知らないのであり、マルクスのように自らの実践と行動のなかでマルクスを学ぶことができないのである。われわれは反面教師としてこのような事実からも学ぶ。