学習のすすめ












(一)マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』について!
この「テーゼ」の歴史的意義、綱領的意義、マルクス主義哲学の核心としての意義を語ったエンゲルスの思想認識を深く知らねばならない。このことがマルクス主義哲学学習の出発点である。

 第一節のマルクスとエンゲルスの生涯で明らかにされているとおり、マルクスもエンゲルスも、ベルリン大学におけるヘーゲル左派運動を通じて二人はヘーゲルとフォイエルバッハを完全に克服(止揚)して彼らの哲学(マルクス主義哲学)を完成させた。二人は共同してドイツの古典哲学に宣戦布告をしたが、その歴史的文献が『ドイツ・イデオロギー』(一八四五年)である。この文献こそマルクスとエンゲルスの共著によるマルクス主義哲学の歴史的宣言の第一歩であった。

 このことについて一八五九年一月に執筆した『経済学批判・序言』の中でマルクスはつぎのように言っている。「エンゲルスと私は別の道を通って同じ結論に達した。彼が一八四五年の春以来、私と同じようにブリュッセルに移り住むようになってから、私たちは、ドイツ哲学のイデオロギー的見解と対立する私たちの見解を共同でまとめあげることにした。実際に私たちはこのことを通じて、これまでの古い哲学思想を完全に清算することができた」と。だからこの『ドイツ・イデオロギー』こそマルクス主義哲学の記念碑的文献なのである。

 さて、マルクスが死んだあと、エンゲルスはマルクスが残した多くの原稿や書類や未発表の文書を整理していたとき、マルクスの手帳に一つのメモを発見した。それは「フォイエルバッハについて」と記した十一の項目にわたる短いメモ書きであった。このメモをみたときエンゲルスは、二人で相談して書いた『ドイツ・イデオロギー』の骨格がここにあることを知った。つまりマルクス主義哲学(唯物論)の骨格だったのである。だからエンゲルスは一八八六年に『ルードヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』を発表したときつぎのように書いた。「マルクスのこの一文の中には新しい世界観の天才的な芽ばえがかくされている最初の記録として極めて貴重な文献である」とのべ、エンゲルスは正式に『フォイエルバッハにかんするテーゼ』と命名した。テーゼとは綱領のことであり、基本的方針のことである。エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』の共同執筆者として、このようにこの「テーゼ」のもつ思想的意義を深く認識していたのである。この「テーゼ」のもつ歴史的意義、綱領的意義、核心的意義としてのこの「テーゼ」の十一の項目を本当に理解できるかどうか、ここに正統マルクス主義者か否かの分かれ道がある。以下その全文を、大月書店発刊(一九六三年)大内兵衛、細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集・第三巻』から紹介する。
マルクス
   『フォイエルバッハにかんするテーゼ』(フォイエルバッハについて)
           一

 これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをもふくめて)の主要欠陥は対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられないことである。それゆえ能動的側面は、唯物論に対立して抽象的に観念論―これはもちろん現実的な感性的な活動をそのようなものとしては知らない―によって展開されることになった。フォイエルバッハは感性的な―思惟客体とは現実的に区別された―客体を欲するが、しかし彼は人間的活動そのものを対象的活動としてとらえない。それゆえ彼は『キリスト教の本質』においてただ観想的態度のみを真に人間的な態度とみなし、それにたいして、他方、実践はただそのさもしくユダヤ人的な現象形態においてのみとらえられ固定される。それゆえ彼は「革命的な」活動、「実践的に批判的な」活動の意義を理解しない。

           二

 人間的思惟に対象的真理がとどくかどうかの問題はなんら観想の問題などではなくて、一つの実践的な問題である。実践において人間は彼の思惟の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない。思惟―実践から切り離された思惟―が現実的か非現実的かの争いは一つの純スコラ的な問題である。

           三

 環境と教育の変化にかんする唯物論的教説は、環境が人間によって変えられ、そして教育者自身が教育されねばならぬことを忘れている。それゆえこの教説は社会を二つの部分―そのうちの一方の部分は社会を超えたところにある―に分けざるを得ない。
 環境の変更と人間的活動または自然変革との一致はただ革命的実践としてのみとらえられるし、合理的に理解されうる。

           四

 フォイエルバッハは宗教的自己疎外、すなわち宗教的世界と世俗的世界への世界の二重化、の事実から出発する。彼の仕事は宗教的世界をそれの世俗的基礎へ解消するところにある。しかし世俗的基礎がそれ自身から離脱して、雲のなかに一つの自立的な王国を自身のためにしつらえるということは、ただこの世俗的基礎の自己滅裂状態と自己矛盾からのみ明らかにされるべきである。それゆえにこの世俗的基礎そのものがそれ自体において矛盾したものとして理解されるとともにまたそれ自体において実践的に変革されねばならない。したがってたとえば地上の家族が聖なる家族の秘密としてあばかれた以上は、こんどは前者そのものが理論的かつ実践的になくされねばならない。

           五

 フォイエルバッハは抽象的思惟にあきたらず、直観を欲する。しかし、彼は感性を実践的な、人間的感性的な活動としてとらえない。

           六

 フォイエルバッハは、宗教性を人間性へ解消する。しかし、人間性は個人に内在する抽象物ではおよそない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体である。この現実的なあり方の批判へ乗り出すことをしないフォイエルバッハはそれゆえにいやおうなしに、
 (一)歴史的経過を切り捨て、宗教的心情をそれだけとして固定して、一つの抽象的―孤立的―人間としての個体を前提せざるをえない。
 (二)本質はそれゆえにただ「類」としてのみ、内なる、無言の、多数個人を自然的に、結び合わせる普遍性としてのみとらえられる。

           七

 それゆえフォイエルバッハは、「宗教的心情」そのものが一つの社会的産物であること、そして彼が分析する抽象的個人が或る特定の社会形態に属することを見ない。

           八

 あらゆる社会的生活は本質的に実践的である。観想を神秘主義へ誘うあらゆる神秘はそれの合理的解決を人間的実践のうちとこの実践の把握のうちに見いだす。

           九

 観照的唯物論、すなわち感性を実践活動として把握することをしない唯物論が到達するところはせいぜい個々の個人と市民社会との観照である。

           一〇

 古い唯物論の立場は市民社会であり、新しい唯物論の立場は人間的社会もしくは社会的人類である。

           一一

 哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである。