学習のすすめ












(二)『フォイエルバッハにかんするテーゼ』の第一の項に唯物論の原点がある。ここに万物を支配する哲学原理がある。この項を深く、しっかり、はっきり、正確に理解できるか、できないか、ここで本当のマルクス主義者か、否かが決定される!

 マルクスの本をはじめから読み直そうという目的で出版された出版物の中の『マルクスのアクチュアリティ』の著者はマルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』についてつぎのように書いている。「テーゼは、すべてがフォイエルバッハの観想的で直感的な唯物論に関するマルクスの批判的コメントであり、いわば、実践的で主体的な唯物論のすすめ、にすぎない」と。誠に、あっさりと、いとも簡単に、これは単なるコメントだという。ここにはエンゲルスのこの「テーゼ」に対する深遠な思想認識もなければ、エンゲルスがなぜわざわざ「テーゼ」と名づけたのかについてもまったく理解できない。だから「テーゼ」の中身についての論述は何もないのである。この「テーゼ」の寸鉄人を刺すその内容を深く知ろうともしないのである。これが本当のマルクス主義者であろうか? 

 われわれ正統マルクス主義者はつぎのように考える。
 『フォイエルバッハにかんするテーゼ』の第一の項は、まさにマルクス主義哲学の土台であり、万物を支配する根本原理たる唯物論の根幹が、正確に、厳格に、きびしく定式化されている。唯物論がここにある。この「テーゼ」にもとづいて『ドイツ・イデオロギー』が展開されている。だからこの項にあわせて『ドイツ・イデオロギー』を読まねばならない。そうすればこの第一の項の内容がよくわかる。

 マルクスはこの項の中でつぎのように言っている。「これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをもふくめて)の主要欠陥は、対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられないことである」と。つまり、フォイエルバッハをふくめた古い唯物論は、目の前に存在している(出現した)事実、現実、事物、事件、事故を、観照的に、そのままに、感覚的に、感情的に、直感的にとらえるだけである。したがって感性的、理性的、理論的、知性的にとらえることができない。だから結果として、客観的存在(現実、事物、事実、事件、事故)が人間(の頭脳)に何を反映させているのか、何を求めているのか、その能動性、知性、目的・意識性は何か、ということがとらえられない、とマルクスは言ってるのである。

 そしてマルクスはつづけてつぎのように書いている。「それゆえ能動的側面は、唯物論に対立して抽象的に観念論―によって展開されることになった。……それゆえに彼は革命的な♀動、実践的に批判的な♀動の意義を理解しない」と。つまり、フォイエルバッハなどの古い唯物論は、結果として、存在(現実、事物、事実、事件、事故)がそのことを通じて何を求めているのかという意識性、能動性、知的要求、目的・意識性をつかめない故に、革命的な実践活動、批判的活動(変革のための行動)の重要さを理解できない。つまりは実践しない、行動しない、ただおしゃべりをするだけだときびしく提起しているのであり、革命的実践活動をきびしく求めているのである。

 この第一の項にもとづいて『ドイツ・イデオロギー』ではつぎのことが強く展開されている。つまり、自然科学の法則と違って、社会科学においては人間が主体なのである。人間とは社会的人間である。だから人間の社会生活(生産力と生産関係の相互関係)の中から意識されてくるその思想性(認識)による実践と行動が現実を支配していく。つまり、存在が意識を生み出し、その意識が実践と行動を通じて存在を支配していく。だから存在を(客観的現実を)変革する決定的要因は目的意識性なのである。そして、存在という現実(物質運動)は常に変化し、発展していくものであり、それにつれて人間の意識もまた常に変化し、発展していくものである。故に人間の思想、意識は常に変化し、発展し、こうして存在に働きかけていかねばならない。マルクスはこうして目的・意識的な実践活動の決定的意義を強く主張している。

 『フォイエルバッハにかんするテーゼ』と『ドイツ・イデオロギー』で展開されているマルクス主義唯物論の骨格は何であるか。それはつぎの三項目に集約される。

 第一、全宇宙と万物は運動する物質である。これが存在であり、一切の土台である。存在とは客観的事実であり、現実、現象、事件、事故である。そしてその存在は運動し、発展し、転換していく歴史的必然性が生み出す偶然性である。故にあらゆる存在を運動する歴史の必然性(歴史的段階と歴史時代)の産物としてとらえる。けっして観照的、感覚的、表面的にとらえてはならない。

 〈故に先進分子と前衛党の活動と政策決定にあたっては、まずその存在、客観的事実、事件、事故などの偶然性を、すべては歴史の必然性としてとらえる。つまりは『歴史科学と現代帝国主義論』にもとづく歴史時代認識の必然性としてとらえる〉

 第二、確認され、とらえられた客観的事実、存在、事件、事故というその偶然性の中に貫かれている歴史の必然性とは何か、その本質を徹底的に明らかにする。この必然性を、思想的、政治的、理論的に(知性的に)明確にされてこそ、はじめてわれわれは何をなすべきかという、実践と行動指針と政策が明らかになる。つまり、存在が意識を生み、意識が存在を支配していく。

 〈故に先進分子と前衛党の活動と政策決定にあたっては、偶然性の中に貫かれる必然性を、思想的(人民戦線綱領とその思想)、政治的(人民戦線政策)、理論的(理論上の三原則)を指針にして、はっきり、しっかり、正確に、一貫して、強く、正面から提起(指導)する〉

 第三、唯物論と観念論の決定的な違いは、人類社会と社会科学においては、人間の能動性としての目的・意識(革命的意識にもとづく実践と行動)の重要さを認めるかどうかにある。唯物論の核心は、革命的実践によってのみ歴史がめざすその必然性は実現される、ということにある。物質(存在)が意識(精神)を生み出す。ひとたび生み出された意識(思想・精神)は、独自の機能(働き)によって存在(物質)を支配する。その結果として、人間の意識によって存在(現実)は支配される。ここに「人間は環境の産物であると同時に、環境は人間によって支配される」(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』一八四五年)、「批判の武器は、武器による批判にとってかわることはできない。物質的な力を倒すには物質的な力をもっていなければならない。そして理論も、大衆をとらえるやいなや、それは物質的な力となる」(マルクス『ヘーゲル法哲学批判・序論』一八四四年)ということの意味がある。偶然性を必然性に転化させるための「革命的活動、実践的に批判的な活動」を目的・意識的に展開する。

 〈故に先進分子と前衛党の活動と政策決定にあたっては、偶然性を必然性に転化させる決定的要因としての「革命的実践」(革命的綱領、人民戦線綱領、人民戦線政策の目的意識的な展開)を重視する。ここに正統マルクス主義と前衛の果たすべき歴史上の使命がある〉