学習のすすめ












(三)マルクス主義哲学の核心たる『フォイエルバッハにかんするテーゼ』の第十一の項「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」というこの一文のもつ深遠な思想的・政治的意味をよくつかめ。そして哲学者たる者の保持すべき人格、人間性、人間像とは何かを説くマルクスの心を知れ!

 『フォイエルバッハにかんするテーゼ』とは何かについてはすでに第三節の前文と(一)の項でくわしく展開した。とくに重要なことは、エンゲルスが一八八六年に書いた『ルードヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』の中身をよく認識すべきことも説いた。そしてこの「テーゼ」の全十一の項目に目を通せばつぎのことは明白になる。つまり、全十一の項目の中では第一と第十一の項が重要であり、この二つの項目は結びついており、関連しており、そしてこの二つの項が全十一の項を支配する二本足になっていることがはっきりする。だからこの第一と第十一の項をしっかり認識すれば全体をつかむことができる。そしてこの第一の項(唯物論)はすでに第三節の(二)でくわしく解明したので、ここでは第十一の項について論ずることにする。

 マルクスはこの項でつぎのように主張している。「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである」と。つまり、フォイエルバッハをふくめた古い唯物論は、宇宙と人類と人間の歴史について、その過去と未来について、いろいろと、さまざまに、解釈したり、解説したり、論評したり、おしゃべりをしただけである。文章だけ、言葉だけ、おしゃべりだけでは何の役にも立たない、といっているのだ。

 そしてマルクスはつづけてつぎのようにいう。「肝腎なことはそれを変えることである」と。つまり、大切なこと、決定的なことは、世界を変革すること、革命を実現すること、そのために運動し、行動し、実践すること、闘うことだ、といっている。宇宙と人類世界、そして人間の歴史は常に運動しており、動いており、物質の運動法則として常にそこでは力が作用している。故に真の哲学者(唯物論)は物質の運動法則に従って、運動し、実践し、行動し、闘わねばならない。これが世界を変革する力となって発展と前進に貢献することだ、と説く。だからマルクスが「テーゼ」の第一の項で「古い唯物論は、人間の意識的な、批判的な、実践と行動の意義を理解しない」といっているのはこのことなのである。

 そしてマルクスが『ヘーゲル法哲学批判・序論』(一八四四年)の中で「哲学はプロレタリアートの中にその物質的な武器をさがしあてる。同時にプロレタリアートは哲学の中に精神的な武器をさがしあてる」と書き、また「批判の武器(註・解釈、解説、おしゃべり、評論)は、武器による批判(註・実力、力、権力とその行使)にとってかわること(註・それに打ち勝つこと)はできない。物質的な力を倒すには物質的な力をもっていなければならない。そして理論も、大衆をとらえるや否や、それは物質的な力となる(註・力には力をもって対抗しなければならない。そして人民大衆は理論、思想、政治的自覚を身につけたとき、実践と行動と実力を発揮する)」と書いているのは、まさにこの「テーゼ」の第一と第十一の項の意味なのである。

 つまり、マルクスはこの「テーゼ」の中で、その短い一文の中で、深遠な思想を展開している。とくに注目すべきは、マルクスはここで弁証法的哲学を展開している。弁証法は物質の運動法則であり、弁証法的歴史観であり、人間の生き方であり、哲学者の人間性についてである。つまり、哲学は闘いであり、行動であり、唯物論とは運動する哲学であり、闘う哲学である、ということ。故に真の哲学(者)は運動し、闘わねばならない。だから哲学者は行動派でなければならず、革命家でなければならない。そしてマルクスは自らそのように行動した。このことは<学習のすすめ>第一節でその生涯を明らかにしたが、マルクスとエンゲルスは哲学者であると同時に実践家であり、革命家であった。したがってこの「テーゼ」の第十一の項は、真の哲学者とは何か、哲学者たる者の生き方、その人間性、人格、人間像を示した深遠な一文なのである。これがわからないようでは哲学者たり得ないだろう。
マルクスを再読しようとして出版された本の執筆者たち(古いマルクス主義学者)は哲学原理がさっぱりわかっていないため、その中身はまったく浅薄(せんぱく)な見本となってしまった。その事実を見よ!
 この「テーゼ」に関する歴史的経過とその価値、その意義、マルクス主義哲学の骨格としての政治的意味については第三節の(一)、(二)でくわしく述べたとおりである。そしてマルクスを再読しようという目的で出版された各種の本の執筆者たちが、このことをまったく知らないが故に、第一歩からマルクス主義哲学を理解できなかったことについても明らかにしておいた。その結果として、この「テーゼ」の最後の項、つまり第十一の項についてもその理解は驚くほどの無知・無能で、思わず笑いたくなる。

 『マルクスのアクチュアリティ』の著者はこの第十一の項についてはつぎのように書いている。

 「第十一テーゼでいわれている世界を変革する≠ニはどのようなことであり、どのような世界≠どのように変革≠キべきなのかということについては、先行するこれらのテーゼを読んだだけではわからないのである。だからその結果として、これらのテーゼそのものもまた哲学者たちによってさまざまに解釈されてきた」と。このとおり、前節でわれわれが明確にしたこの第十一の項の意義、哲学者たる者の保持すべき人格、人間性、人間像とは何かについてのマルクスの心について、何一つ理解できないから「わからない」のであり、わからないから、自分もフォイエルバッハと同じように「さまざまに解釈」しているのである。そして自分自身がフォイエルバッハになり下がっていることにはまったく気がつかない。これはまったくの喜劇(悲劇)である。

 この著者は「マルクスは世界を変革せよというが、どう変革するかについては語っていない」という。そんなことをここで語る必要はないのだ。マルクスがここで語る目的は哲学原理であり、深遠な思想原理を「寸鉄人を刺す」短い言葉で語るのが目的であり、その外のくわしい学説は別の場所があるのだ。このようなものごとの分別さえわからないのであろうか。

 哲学に関するくわしい学説に関しては『ヘーゲル法哲学批判・序論』(一八四四年)、『ドイツ・イデオロギー』(一八四五年)、『哲学の貧困』(一八四七年)、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(一八五一―五二年)、『経済学批判・要綱』(一八五七―五八年)、『経済学批判・序言』(一八五九年)、『経済学批判』(一八六一―六三年)。

 そして世界を変革するとはどういうことか、そのためには何が必要か、その戦略・戦術問題については『共産党宣言』(一八四八年)、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(一八五一―五二年)、『ドイツにおける革命と反革命』(一八五一―五二年)、『フランスにおける階級闘争』(一八五〇年)、『フランスの内乱』(一八七一年)、『ゴータ綱領批判』(一八七五年)。その他至るところで世界の変革についてマルクスは多く語っているではないか。マルクス主義学者を自認するこれらの諸先生方はいったいマルクスの本を読んでいるのであろうか。マルクス読みのマルクス知らずとはこのことである。

 マルクスを読み直そうという目的の代表的出版物のもう一つ『マルクスと哲学』の著者はつぎのように書いている「(この第十一の項は)しばしば<変革の哲学>の宣言として受けとめられてきた。しかしこれはまったくの誤解である。そうではない。哲学とは所詮世界解釈以上のものではない。フォイエルバッハを含めて哲学者たちは結局世界解釈以上のことをやる気はないのだという、哲学および哲学者との決別宣言なのだ。マルクス自身も、後年、ブリュッセル期にわれわれのそれまでの哲学的良心を清算した≠ニ述懐しているとおりである」と。

 ごらんのとおり、この著者は「マルクスのテーゼは変革の哲学宣言と受けとめられてきたが、これはまったくの誤解である」というが、そのことが「まったくの誤解」なのだ。このことについては「第三節」の前文で、エンゲルスが『ルードヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』(一八八六年)の中で、マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』のもつ歴史的意義、綱領的意義、マルクス主義哲学の核心としての意義について論じたこの深遠な思想を理解すればわかることである。まさにこの「テーゼ」は変革の哲学なのだ。だからエンゲルスがマルクスのこのメモ(「テーゼ」)を発見したとき「ここに新しい世界観の天才的な芽ばえがあり、極めて重要な文献である」と言い切ったのであり、だからエンゲルスはこれに「綱領」という名をつけたのである。故にマルクスの哲学は革命の哲学であり、変革の哲学なのだ。マルクスはその第十一の項で、変革の哲学、革命の哲学を強く、決意をこめて、はっきりと主張している。その第十一の項「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」といっているのである。それはつまり、いろいろ解釈したり、解説したり、評論するだけではだめなのだ。弁証法の法則が示すとおり、物質の運動法則どおりに、物質的な運動、闘い、実践と行動、革命的な行動に身をおくことこそ真の哲学者なのだ、そして自らも革命家たれ、というこのことが第十一の項の内容である。このように、その中身を深く認識できないところにこれらの本の著者たちの浅薄さがある。

 われわれ正統マルクス主義者、真のマルクス主義者は、断固としてこの「テーゼ」が説く、マルクス主義的人格、人間像、人間性の獲得を一貫して追求せんことを誓う!