学習のすすめ











 経済とは「経国済民」という古来中国の歴史書からきた言葉である。「経国」とは国を治めることであり、「済民」とは民(人民)を救うという意味である。つまり経済とは国家と社会、国民と人民の生活と安全を維持し守るという意味である。そして「経済学」(エコノミクス)はギリシャ語の「エコノミヤ」と「エコス」(家、家政)と「ノモス」(法則)から生まれた言葉である。

 エンゲルスの名で一八七八年に出版された『反デューリング論』ではその第二節・経済学の部でつぎのように述べられている。「経済学は、もっとも広い意味では、人間社会における物質的生活財の生産と交換とを支配する諸法則についての科学である。……そして経済学は、本質的には歴史科学なのである。経済学は、ある歴史的な、絶えず変化する材料を取り扱う。つまり、それは、まずはじめに、生産と交換という、個々の発展段階がもつ特別な諸法則を研究し、それから、この研究の終わりにいたってはじめて、生産と交換一般にあてはまる、普遍的な諸法則をうち立てる」と。まさに経済学は社会科学であり、歴史科学であり、人類の歴史の経済法則についての研究なのである。

 この根本思想と哲学原理が経済学を論ずる場合の大前提でなければならない。これがないと、結果としてその経済学は、非科学的・非歴史的・空想的・机と紙と数字の上の観念論に終わる。

 さて、経済学という学説、理論が体系的に成立したのは十八世紀のイギリスであった。アダム・スミス(一七二三―一七九〇)による古典経済学の完成であり、彼はその創始者となった。

 ところで、なぜイギリスがその発祥の地となったのか。それはイギリスが十八世紀における世界資本主義、独占資本主義の総本山だったからである。そういう土台があった。ではイギリスがどうして世界資本主義の総本山になりえたのか。それはまずこの国のおかれた客観的条件としての地政学上から見なければならない。海に囲まれたこの国は、ヨーロッパ大陸のように、国境をめぐる大規模な対立と抗争と戦争は比較的に少なかった。その結果として国土の荒廃と破壊、人的資源のそう失、などの被害も大陸に比べて少なかった。そしてまた島国であったため海外への雄飛、商業と貿易への熱意も高く、そのため商品経済(商業)はどこよりも早く発達した。一七七〇年代(十八世紀後半)から開始された全産業にわたる技術改革(産業革命)は、イギリス資本主義を一変させた。まず綿織物工場の機械化、そして動力源たる蒸気機関の発明、やがて鉄道と蒸気船へと進み、イギリスは世界の大工場となった。

 産業革命、機械化、大工場生産はまさに大量生産時代の到来であり、市場の独占化であり、大量の商品の販路を求める帝国主義への指向である。同時に国内においては財産の蓄積であり、物質的財貨とともに知的財産も豊かになる。学問、芸術、そして知識人も豊富になった。こうした歴史的条件とその存在がアダム・スミスとその頭脳を生み出したのである。イギリス古典経済学とは、イギリス資本主義、イギリス独占資本主義の理論上、思想上の体現であり、そのための学説であり、アダム・スミスはその代表者である。イギリス資本主義、独占資本主義が産業活動という実践と行動で到達した結論に、アダム・スミスの頭脳が(学者として)理論的に、思想的に到達した学説である。故に古典経済学とは、資本主義、独占資本主義、帝国主義のための経済学であり、そのための思想原理であり、近代資本主義・独占資本・帝国主義の道しるべであり、その指針・羅針盤である。そしてよく認識しなければならないのは、資本主義経済学、ブルジョア経済学の諸派(学派)はたくさんあるが、そしてそれぞれ独自の学説を展開しているように見えるが、本質的にスミスの思想と理論を原本にしているのであって、根本においてはすべてスミスであることを知らねばならない。