学習のすすめ












(一)アダム・スミスと古典経済学の歴史上の位置、その形而上学的・観念論的本質について!

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 アダム・スミスはイギリスのスコットランドに生まれた。彼は幼くして父を失い、母一人に育てられた。兄弟もなく、生涯を独身で通し、ひたすら学問に身を投じた。グラスゴー大学、オックスフォード大学に学び、最後はグラスゴー大学の総長になった。多くの学説を発表したが、一七七六年に刊行した『国富論』(原書名『諸国民の富の性質と原因に関する研究』)がその代表的著作になった。これが古典経済学の原書であり、資本主義経済学(ブルジョア経済学)の教典である。

 スミスとその古典経済学の理論上、思想上の原理はつぎの点にある。(一)この世の富と財産を作り出すのは人間の労働であり、それは人間の欲望から生まれる。故にその欲望を抑圧してはならず、欲望の自由・放任こそ経済活動の土台である。(二)そのための基礎的条件は自由であること、自由競争であること、市場原理である。(三)自由競争から派生する否定的現象である個人主義、排他性、非道徳などは、市場における人間相互の関係と交流から生まれる相互の感情と道徳と理性(という見えざる神の手)によって自然淘汰(とうた)され、克服される、というものである。

 スミスのこの『国富論』はその以前(一七五九年)に執筆された『道徳感情論』が背景にある。この文書を執筆した時代にスミスはグラスゴー大学の論理学・哲学教授として、「人間道徳論」を講義していた。この『道徳感情論』で展開されているその哲学思想の根幹はつぎの点にある。つまり、人間は欲望によって働く。だから人間の欲望は自由放任でなければならない。自由から創意工夫が生まれる。しかし反面その自由放任は個人主義や、野心や、虚栄心や、非道徳、規律違反なども生み出す。しかしこれらは強制ではなく、市場における人間相互の交流から必然的に生まれる道徳的感情による自立的規範によってのみ淘汰される。このような「見えざる神の手」によってはじめて、本当の調和と秩序は生まれる。自由と平等の世界は市場から生まれる。これがスミスの説く『道徳感情論』である。

 だが、スミスのこの哲学・経済学は、まったくの形而上学(机と紙と数字の上の固定的形式主義)、観念論(事実、歴史、実際、現実、行動と実践から離れた空論、空想)であることははっきりしている。資本主義と独占支配の世界はまさに戦争と殺りく、暴力と犯罪、欲望のままの世界であり「見えざる神の手」など一つもなかった。
(2)
 アダム・スミスの『国富論』の背景にある『道徳感情論』、そして資本主義的ブルジョア経済学の根本思想は「人間欲望の自由放任」であり、自由主義こそが経済繁栄の基礎であり、統制と保護は発展を阻害する、というものである。だから今も最近『自由をいかに守るか、ハイエクを読み直す』(渡部昇一著、PHPビジネス新書)という本が自由、自己流、自分勝手、を謳(おう)歌する。その一方では『欲望資本主義に憑かれた男たち、モラルなき利益至上主義に蝕まれる日本』(伊藤博敏著、講談社刊)の中で、堀江貴文や村上世彰など、拝金主義にまみれた経済犯罪人をとりあげ、欲望の泥沼社会を告発する声も高い。

 まさにこの問題こそ経済学の根底にある根本的思想問題なのである。この問題は観念論では解決できない。歴史科学以外に解答はできない。つまり、欲望とは人間のことであり、人間とは何かということであり、それは人間の歴史、人類の歴史をたどることによってのみ答えは出てくる。欲望とは人間のことであり、人間とは歴史が生み出したものであり、故に人間の欲望は常に歴史的なもの、永遠の過去から永遠の未来に向かって変化し、発展し、転化していくものである。欲望は固定したものではなく、歴史と環境によって変化し、転化していくものである。

 人類、人間は動物(猿)から分化して進化した。気の遠くなるような長い年月を経て、その姿、形、機能も進化し、発展し、変化してきた。特にその脳は人間だけが保有するその機能によって発達してきた。そしてその脳が生み出す欲望、感情、感覚、知能は決定的に変化していった。人間とその脳はすべて環境の産物であり、環境によってすべて作り出されてきた。そしてまた人間とその脳はその知的能力によって逆に環境を支配していく。それは人類の歴史をみればすぐわかることである。

 スミスとブルジョア経済学、渡部昇一とブルジョア自由主義者たちは科学を知らず、人間とは何かを知らず、人類の歴史も知らず、形而上学と観念論の世界におぼれた空想家であって、歴史的にはやがて消滅していく現代のソクラテスである。
(3)
 人類の歴史が証明しているように、人間の欲望と道徳感情というものは常に環境によって変化してきた。人類が最初に作り出した生活集団、その社会とは古代から原始にかけて存在したコミュニティーとしての原始共同体社会であった。そこではまだ生きるための欲望たる食も、住も、衣も生産することができないため、すべては大自然に依存していた。つまり、食、住、衣は生産ではなく、大自然からの採集であり、山野からの狩猟であり、河川からの漁労であった。しかも道具類はまだ発明できなかった時代、すべては人間の体、手足が道具となった。これで大自然の猛威と、各種の障害にたちむかっていくためには、人間の集団による一体としての協力と共同と連帯を必要とした。歴史時代とそのような環境が協力と共同と連帯の社会を作った。だからここでは獲得も所有も分配も社会的共有であり、社会的道徳感情論であった。だからそこには支配も、被支配もなく、真の自由と平等の世界があった。対立と抗争と戦争も必要なかった。平和な社会であったということは、歴史学者、人類学者、日本の考古学会の定説でも、縄文時代(原始時代)は平和な時代であったことを証言している。

 このような社会が崩壊し、社会的道徳感情がなくなり、支配者と被支配者の対立と抗争、戦争と内乱、犯罪と暴力が出現したのは、生産活動が発達して世の中に富と財産が生まれてからである。人類は大自然からの採集経済から、生産活動、物質生産の時代に移行した。知恵と知能の発達、道具の発明と改良も進み、生産力も高まった。その結果余剰生産物(備蓄)が生まれ、それが財産となった。当初これはコミュニティーの共同管理、共同所有であった。しかしそれが増加するにつれ、やがて力(知能、才覚、腕力)の強い人間とその集団が、自らの本能的欲望自由放任によって自分のものにした。私有化、私有財産が生まれた。彼らは力まかせに、大自然が生み出した人類社会のものである土地や山まで「これもおれのものだ」とばかりに占有し、私物化してしまった。そしてこの自らの所有、私有財産を守るために権力機関、支配機関(国家)を作り上げた。人類の最初の国家、古代奴隷制国家(古代ギリシアの都市国家、古代ローマ帝国)が強大になった代表例である。つまり、生産力の発展が生産関係(人間の相互関係、階級社会、権力と国家)を作り上げたのである。これが科学的にみた経済法則であり、史的唯物論なのである。

 こうした歴史時代が、こうした環境が、人間の道徳感情論を変化させ、人類社会に富と財産をめぐる争奪戦たる階級社会と階級闘争の人間道徳論を生み出したのである。すべては歴史と環境が欲望を変化させ、転換させ、その思想・意識が世界を支配していった。つまりは環境が人間を作り、人間が環境を支配していったのである。

 原始共同体が崩壊したあとの社会は奴隷制社会である。ヨーロッパでは古代ギリシャの古代都市国家(ポリスとしてのアテネ、スパルタ)、そして古代ローマ帝国であり、日本では弥生時代である。そしてこの時代から人類史上に戦争と内乱、対立と抗争、暴力と犯罪が日常化していった。奴隷制から封建制、資本主義から現代の独占と帝国主義へ、原始共同体が解体された以降、人類社会に戦争のない時代は一度もない。このような対立と抗争、暴力と犯罪、戦争と内乱の原因はみな、経済問題である。つまりは富と財産、土地と領土、金(カネ)をめぐる争いなのであり、根底には人間の欲望の自由放任がある。そこには「見えざる神の手」などひとつもない。まさに「欲望資本主義に?かれた人間たち」の世界なのである。スミスと自由主義、そのブルジョア経済学、歴史上のすべての宗教も、原始共同体社会が崩壊したあとの人間の歴史を貫く富と財産と土地と領土をめぐる対立と抗争、戦争と内乱、暴力と犯罪を何一つ解決できなかった。「見えざる神の手」などは空想の世界の幻影に過ぎない。永遠の過去から永遠の未来に向かって絶えず運動し、発展し、前進し、転換していく人類の歴史が必ず近い将来この問題をきっぱりと解決するであろう。その時代はもう近い。なぜなら人類の歴史は、原始共同体―奴隷制―封建制―資本主義―独占と帝国主義へと、前へ前へと進んできたからには、ここで止まっているわけではなく、つぎの新しい時代へ進む以外にない。それは、大衆的社会・人民の時代、高度に発達した近代的コミュニティーの時代である。それを導く羅針盤こそ、科学的経済学・マルクス主義経済学である。