学習のすすめ











(一)マルクス主義経済学とは、目的意識的で、科学的であり、計画的で、社会的(社会主義的)計画経済である。その正しさはレーニン・スターリンのソビエト社会主義建設の四十年が、偉大な勝利としてはっきり証明している。その歴史的事実、客観的事実をしっかりと確認せよ!

 マルクス主義の科学的経済学は、レーニンとスターリンによって、実際にこの世で、そのソビエト社会主義建設の四十年によって、みごとにその正しさが立証されている。その四十年間のソビエト社会主義は、マルクス主義的計画経済の勝利の四十年であった。レーニン、スターリン時代のソビエト社会主義建設の四十年間がいかにすばらしいものであったかということは歴史が証明している。観念論でなく、歴史上の事実として、多くの証人と証言に照らして、率直に確認しなければならない。

 ロシアは非常に遅れた農業国であった。ロシアが資本主義に移行したのは一八六一年、ツアー(皇帝)による農奴解放令の公布からであった。しかしそのとき、世界はすでに資本主義時代の発展期にあった。イギリスは一三〇〇年代に農奴は解放され、一六四一年にはピューリタン革命が実現され、完全に資本主義社会であった。ロシアはそういう遅れた国であったから、一九〇五年の日露戦争ではアジアの小国・日本に敗北し、一九一四年にはじまった第一次世界大戦ではドイツに敗北しつづけたのである。そしてロシア皇帝は退位した。この過程でロシア革命が実現し、レーニン、スターリンの社会主義時代が出現するのである。
レーニンの時代は外国干渉軍と国内反乱軍とのし烈な戦争とその勝利、「共産主義土曜労働」(社会主義競争)による社会主義の基礎的建設の勝利の時代であった。
 レーニンとソビエト社会主義が成立したその直後の一九一八年のはじめから、世界中の資本主義国が、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本を中心に、全部で十六カ国が、いっせいにソビエトに攻め込んできた。それに呼応して、国内の旧時代の将軍たちも反乱軍を組織して蜂起した。こうしてあの過酷な国内戦が五年間もつづくのである。レーニンとソビエトはこれに対して「戦時共産主義」を発動し、義勇軍(遊撃隊、ゲリラ)を組織し、人類最初の社会主義祖国を守れ、というスローガンのもと、千五百万人の犠牲を払って戦い抜き、勝利した。この歴史的事実のなかに社会主義の偉大さ、その強じんさ、その優越性がある。

 徹底的に破壊されたこの国土に社会主義を建設するにあたり、その苦難な経済建設に、若い青年たちが決起する。それが「共産主義土曜労働」である。土曜日の半日休業を返上し、無償労働で祖国と社会主義建設に奉仕しようというこの運動は全国に広がった。レーニンはここに真の競争「社会主義競争」があると高くたたえた。戦争時の「戦時共産主義」、平時の「共産主義土曜労働」、ここに資本主義の「弱肉強食の自由競争」と、ソビエト社会の「社会主義競争」の違いがある。

 そしてレーニンは一九二〇年十二月に開かれた第八回全ロシアソビエト大会の席上「社会主義とはソビエト権力プラス全国の電化である。エネルギー革命によって国の工業化と近代化を達成しよう」と呼びかけた。そして直ちに「全ロシア電化委員会」を設立、翌年にはこれを「ゴスプラン」(ソビエト連邦閣僚会議国家計画委員会)に改組、本格的な計画経済に取り組んでいったのである。
レーニン、スターリンのソビエト社会主義建設の偉大な勝利を証明する世界の記録と、多くの証言をみよ。客観的事実の中から社会主義計画経済の正しさを確認しよう。
 レーニンのあとを継いだスターリンは、遅れた農業国のロシアを、近代的な重工業と化学技術工業国へ向けた計画経済を実施。一九二八年から開始された第一次五カ年計画は、つぎつぎに継続して実現され、その中から新たな社会主義競争も展開された。その一つがスタハノフ運動である。一九三三年から始まった第二次五カ年計画の中で、ドンバス(ウクライナ南部の炭鉱)で働くスタハノフ(一九〇六―一九七七)は、技術の研究と改良、作業手順の綿密な検討と合理化の中で、今までの十四倍という生産量の増大を実現させた。スターリンはここに社会主義競争の見本があるとして「スタハノフ運動」を全国的に展開した。

 レーニン、スターリンの社会主義経済建設の巨大な発展については、世界の新聞、雑誌、統計資料、学者知識人の発言などによってそのことは証明されている。その代表的な実例の中には、一九八五年度版『共同通信社・世界年鑑』がある。そこでは、ソビエト経済について「工業の成長率は第一次五カ年計画(一九二八)以来、一九五九年まで、第二次世界大戦中を除いて最低でも一〇%という高度成長を達成した」と記録されている。

 そして学者・知識人の証言についてはジョン・K・ガルブレイス(一九〇八―二〇〇六)がある。アメリカ経済学会の大御所で、一九七〇年代のアメリカ経済学会会長で、二十世紀経済学の巨人、アメリカ知性の代表といわれたガルブレイスは、一九八九年四月出版の著作『資本主義、社会主義、そして共存』の中でつぎのように書いている。「資本主義諸国が一九三〇年代に大恐慌と不況にあえいでいたとき、ソ連の社会主義経済は躍進に躍進を続け、アメリカに次ぐ世界第二位の工業国になった。そして完全雇用と社会保障をやってのけた。そして三〇年代、四〇年代の科学と技術、兵器と軍事技術、原子エネルギーと宇宙開発、大西洋横断とジェット機開発、などの近代科学と技術の分野ではソビエトは当時世界をリードしていた」と。ガルブレイスはその本の中で、このソ連経済が崩壊しはじめたのは一九七〇年代以後(フルシチョフの修正主義によってソビエトの党と国家が変質したあと)のことであったことを論じている。

 そしてもう一人、日本では小泉信三(一八八八―一九六六)の発言をあげることができる。小泉氏は日本の有名な経済学者で、慶応義塾の学長を務め、現天皇の皇太子時代の教育係を務め、文化勲章の受章者であり、昭和日本を代表する最高の知識人であった。氏は名高い反マルクス主義の闘将であり、マルクス主義批判を展開するその氏が、一九三三年に出版した『マルクス死後五十年―マルクシズムの理論と実践―』(好学社・刊)の中で、スターリンの五カ年計画の巨大な発展に目を見張り、つぎのように書いている。「ソビエト経済の発展は従来、しばしば、局外観察者の予想を驚かせた。ことに一九二八年以降における累次五個年計画の成績は、懐疑的批判者の意表にでるものが多かった。この点において、著者もまた対ソビエト観察において一再過ちを犯したことを自認しなければならぬ。…勿論ソビエト経済は、ソビエト当路者少数人の力によって発展して来たものではなく、当路者その人がすでに一面環境の所産であることは、これを争うべくもない。しかもそれ自身一面環境の所産に外ならぬソビエト政治家その人の洞察眼と実行力とが、最も重要の点でその発展を左右して来たことは、否定し難きところである。著者はこの予測し難きものの予測において一度ならず誤った」と。小泉氏はこのように自らの認識不足を認め、ソビエト経済の驚くべき発展を謙虚に認め、率直にスターリンの力量に脱帽しているのである。一流の人間こそがこのように事実を事実として認めるのであり、二流三流の小人物は事実を事実として認められないのである。

 スターリンのこのような計画経済と社会主義建設の勝利が第二次世界大戦におけるソビエト軍の大勝利を生み出したのである。事実を見れば明らかである。ソビエトの化学重工業の産物たる、連続多発式ロケット砲「カチューシャ」はドイツ軍だけでなく世界を驚かせた。最強度鋼鉄製重戦車「T34」はドイツ軍が誇る対戦車砲の弾をことごとくはねかえした。やがて世界最速の戦闘機「ミグ」を生み、二十一世紀の現代でも世界中の地上戦における第一級の自動歩兵銃「カラシニコフ」(AK)を生み出した。この銃は軽く、故障なく、壊れなく、そして最も威力があり、今でも第一級である。

 一九四九年には原爆の開発に成功してアメリカと並び、一九五七年にはアメリカに先がけて人類初の人工衛星・スプートニク一号の打ち上げに成功。一九六一年にはガガーリン少佐を乗せた世界最初の人間宇宙船が軌道に乗り「地球は青かった」とのメッセージとなった。世界中がガガーリン・ショック≠ニ、ガガーリン・フィーバー≠ノ沸いた。
 第二次世界大戦におけるソビエトの勝利は、国の重工業化、化学産業の充実、という物質的勝利と共に、ソビエト国民(人民)の思想意識の高さもまたこれを保障した。それを象徴することのなかに「党員前へ!」というスローガンがある。ドイツ軍との決戦期、白兵戦の時期、そして突撃隊出動のとき、常に指揮官は「党員前へ!」を叫び、そして共産党員は常に一歩前へ出て、非党員の先頭に立ち、身を投げ出していった。それは第二次世界大戦のすべてに出現した革命的伝統である。その一例にフランスにおけるレジスタンス(ナチスの支配に反対する抵抗運動)がある。フランス国民は多くの犠牲を出してナチスと戦った。その先頭にフランス共産党員が立った。そして最大の戦死者を出し、当時フランス共産党は「銃殺される者の党」と呼ばれたのは記録に残っている歴史的事実である。
イギリスの軍事科学者、リデル・ハートもソビエト社会主義の巨大な発展に目を見張ったというこの事実を確認せよ!
 レーニン、スターリンのソビエト社会主義のこのような巨大な発展と前進、その科学技術の高度な成果を証言したいまひとつの記録を紹介しておきたい。それはリデル・ハート(一八九五年パリに生まれ、一九七〇年一月イギリスにて没)の著作『第二次世界大戦』(日本語版・一九九九年九月中央公論社刊・上下二巻)である。リデル・ハートはケンブリッジ大学に学び、第一次世界大戦には将校として従軍、重傷を負い、以後軍事科学の研究に没頭、軍事科学に関する多くの著作を発表した。彼の軍事問題に関する科学研究はヨーロッパ各国で高く評価され、その功績により、イギリス女王から「ナイト」の位を授けられた。彼は前記の著作の中で、客観的事実として、ソビエト軍の高度な科学技術についてつぎのように書いている。

 「ソ連軍の戦車はどこに出してもひけをとらないばかりか、多くのドイツ軍の将校にいわせれば、最高のものであった。……戦車自体の性能、耐久性、備砲では最高度な水準に達していた。ソ連軍砲兵は質的に優秀であり、またロケット砲の大規模な開発が行われ、これがきわめて有効であった。ソ連軍のライフル銃はドイツ軍のものより近代的で、発射速度も大きく、また歩兵用重火器の多くも同様に優秀だった」と。このことは、われわれが先に書いたとおり、戦車は「T34」であり、ロケットは「カチューシャ」であり、歩兵銃は「カラシニコフ」であった。そのことをリデル・ハートもはっきりと確認している。

 またソビエト人民とソビエト赤軍兵士の戦闘能力についてもつぎのように書いている。「ソ連の一般国民は鋼鉄(スターリン)の名をもった彼らの指導者よりもずっと剛毅だった。……彼らは長蛇の列をつくって前線行きを志願した」。「ソ連軍の改革は上層部から始まった。当初からの高級指揮官を思い切って整理し、そのあとがまに大部分が四十歳以下の、若い世代の活動的な将軍を登用した。彼らは前任者よりもいっそう専門家であった。かくしてソ連軍統帥部は平均年齢でドイツ軍のそれよりも二十歳近くも若返り、活動性と能力の向上をもたらした」と。

 このことのなかに、トハチェフスキー事件を通じてスターリンが実行したソビエト赤軍内の粛清と、根本からの赤軍再編成の偉大な成果がくみとれる。(この事件とくわしい歴史的事実については〈学習のすすめ〉第二節を参照されたい)。

 さらにリデル・ハートはスターリン指導下のソビエト国民の一致結束ぶりについてつぎのように書いている。「ソ連兵は、他国の兵なら餓死するときにも生きつづけた。ソ連軍は西欧の軍隊なら餓死するはずの環境にも生存でき、他の国の軍隊なら破壊された補給が再開されるまで停止して待つはずの場合にも、彼らは前進を続行することができた。このときの印象を、ドイツ軍のマントイフェル将軍(独ソ戦開始時、第七装甲師団長)はつぎのように要約している。ソ連陸軍の進撃ぶりは西欧軍の想像を超えたものがあった。兵士はザックをひとつ背負い、その中に前進の途中、畑や村々から集めた乾いたパンの外皮や生野菜を詰め込んでいた。馬匹は家々の屋根わらを食べさせていた。ソ連軍は前進にあたって、このような原始的な訓練によっても長期の戦闘に慣れていたのである」と。

 リデル・ハートはもちろん資本主義陣営の将軍である。だから政治的には反ソ陣営の人間であるが、先に紹介した日本の小泉信三氏のように、それでも事実は事実としてスターリンとソビエトの科学技術の偉大さと、ソビエト国民の英雄主義を認めざるを得なかったのであり、このことがこの著作の中に事実として記録されている。観念論者と違ってわれわれはあくまで客観的事実を重視する。なぜなら事実の中にこそ真理と問題の本質がかくされているからである。