〈最近の人民戦線の
重要基本文献集









仲正氏が書いている「アキバ事件をめぐるマルクスもどきの嘘八百を排す」(連続通り魔も「下部構造」のせいだって?サヨク論客のお粗末な我田引水を一刀両断)というこの言葉を、われわれの手で改めてここに一刀両断する!

  月刊誌『諸君!』(文藝春秋社刊)二〇〇八年九月号に金沢大学法学類教授・仲正昌樹氏が「アキバ事件をめぐるマルクスもどきの嘘八百を排す―連続通り魔も下部構造のせいだって?サヨク論客のお粗末な我田引水を一刀両断―」という表題の一文を発表している。
 仲正氏がここに書いているその内容は、最近連続して発生している無差別殺人事件、通り魔事件、思い付き殺人、不可解な犯罪などの代表例として、六月八日、東京秋葉原の繁華街で、二十五歳の男による「無差別通り魔殺人事件」で、七人が殺され、十人が重軽傷を負ったという「アキバ事件」をとりあげ、この種の事件は、すべて悪質な人間、その犯人個人の責任であり、問題にすべきは個人のことについてである。それを、これは社会問題だとか、事件の背景を考えるべきだとか、事件の本質としての政治・社会・人間性そう失の時代認識を考えるべきだとかを主張するのは、マルクスもどきの嘘八百だと「一刀両断」しているのである。
 そして、この種の犯罪の背景について、演繹的に、俯瞰的にとらえて発言している現代思想の批評家・東浩紀氏や、テレビ朝日のスーパーモーニングの鳥越俊太郎氏や、TBSのサンデーモーニングの経済学者・金子勝氏などの実名をあげ、この人たちを槍玉にあげて「マルクスもどきのサヨク」だと批判しているのである。このように主張する仲正氏らの右翼民族主義派は一貫して人間性悪説を根底に、人間性善説を説くのは「マルクスもどきのサヨク」だと断定する。
 この問題(人間性悪説)については、すでにわれわれは、二〇〇六年一月と、七月に、本紙上で、空想的観念論のブルジョア的人間べっ視としての人間性悪説の非科学的欺瞞性を暴露しておいたが、仲正氏の論を機会に、もう一度この問題を論じておきたい。そしてこの種の思想的・政治的見解というものは、歴史上崩壊していく運命にある古い時代の思想・政治認識と同じで、アメリカ帝国主義の崩壊、アメリカ一国支配の終焉、歴史の転換と新しい時代の到来という、現代の歴史時代の産物であるということ。そのとき、崩れ行く者の泣き声、叫び声として聞きながら、同時に、われわれ自身にとっては、これを反面教師として大いに学ぶための材料にしたいのである。その核心は、すべての問題を哲学・科学思想からとらえる、ということ。つまり、哲学的には演繹的(そしてまた帰納的)に、科学的には人類と人間を歴史科学的に、そして方法論としては俯瞰的に、こういう哲学・科学思想でみつめる、ということである。

この問題の根本は人間とは何かについて知ることである。そのためには人間を生み出した母体、土台としての宇宙と地球と人類の歴史を哲学・科学的に知ることである。そこから出てくる結論は、人間は環境の産物であり、環境に支配される。同時に人間は自分の意志によって環境を支配していく、というこの法則のことである!

 哲学・科学を知らず、人類社会の歴史的存在とその原理を知らず、知性なき人間たちは、何か起こると、その表面の現象だけをみて、自分の感情と感覚だけでさわぎたてる。新聞報道でみるニュースなどはその例である。人間性悪説もそうである。誰が悪い、彼が悪い、やっつけろ、罰せよ、殺してしまえ、というのである。そうではない。
 結論から言えば、人間は環境の産物であり、環境に支配される。そしてまた人間は自らの意志にもとづいて環境を変革し、支配していく。だから人間とは歴史的で、社会的なものなのである。人間とは社会的人間である。宇宙と地球と人類と人間の歴史をみればはっきりしていることである。物理学、生物学、人類学が到達した科学の定説を知ればはっきりしている。
 このことを証明する科学的人類史の第一歩は、人間、人類はどうして生まれたのか、というこのことから出発しなければならない。ここに原点があり、このことが人類と人間のすべてを支配している。それはもう世界の人類学者が共通認識として統一した見解に到達しているとおり、それは直立二本足歩行である。人類は二本足歩行から人間になった。猿と人間の分岐点は直立二本足歩行である。そしてこの二本足歩行は食うこと、食を得るための必要性から、森と山の中の生活から大地と平原に生活の場を求めて移動したことからそれは生まれ、はじまった。つまり、そのような生活環境が人間を生み出したのである。これは科学としての人類学の確定した根本認識である。環境が人間を作り出し、人間は環境の産物であり、そして環境を支配していく。
 現代世界の人類学者の統一見解と一致して、エンゲルスはその著作『猿が人間になるさいの労働の役割』(一八七六年)の中で猿の中の一群が枝分かれして、食を求めて大地と平原に移動し、このときから直立二本足歩行がはじまり、手が自由になり、脳が大きくなり、道具を使う労働がはじまった、と書いている。ここに科学があり、人間は環境の産物だとする科学的証明がある。
 そして人類学、考古学の定説は、人類のはじめは生産力がなく、衣・食・住のすべては大自然からの獲得、つまりは自然採集、狩猟経済であった。そういう物質生活、物質経済が、人間の共同生活、協力と共同という、原始コミュニティーを作り出した。つまり、環境が人間を作り、環境が人類社会を作り出したのである。以後、人間は脳を動かし、手を動かし、道具や機械を作り出し、環境を支配し、物質生産を発展させていった。この生産力の発展と前進、この環境の変化が人間社会の変化を促していった。原始時代―奴隷制時代―封建制時代―資本主義時代へと転換していく。すべては環境の変化の産物であり、その中で人間は自分の意志にもとづいてその時代に応じた人間関係、人類社会、国家と社会構造を作り出していった。
 人類の歴史を少しでも知っている人ならわかるとおり、歴史上、戦争は必然であった。戦争の原因は土地と財産をめぐる争いが根底にあり、そこから思想上・政治上の対立が生まれていく。その一番小さいのが人間個人の間のけんかであり、殺人である。個人のけんかも、殺人も、戦争の一つであり、その一部である。したがってその原因も根底はみな同じである。つまりは食うための、生きるための、生活し生命を維持するためのその歴史時代が生む戦いであり、一つの戦争である。仲正氏のいうような、単なる個人問題ではない。
 仲正氏と人間性悪説をとなえる人びとは、人間とは何か、人類とは何か、人類社会の歴史とは何か、という根本的なもの、その原理・理念・原則を何一つとして理解しない、誠に浅薄で、軽薄で、無知蒙昧な種類の人間だということがわかる。
 こういう種類の人物はこういうことも言う。環境と社会が悪を生み出すというなら、同じ環境と社会の中にあるすべての人が悪人になるはずなのに、一部の人だけが悪人になるのはどうしてか、やはりその人物に問題があるからだ、と。この意見には簡単な一例をあげるだけで十分である。インフルエンザが流行したとき、この自然現象、社会現象、その環境は、すべての人びとに影響をあたえ、みんなが病気になる(犯人になる)必然性がある。しかし、現実、実際にインフルエンザにかかるのは、全体から見れば一部の人だけである。だからこの場合偶然その一部の人びとだけがかかったのである。それはなぜか。その偶然性を生み出したのは個々の、個別的条件(肉体的条件、体力、生活環境、など)が個別的条件(偶然性)となる。だが、ここで肝心なことは、偶然性に目を向けるのではなく、誰でもかかるその必然性に向かって闘うことなのである。もしも病院の医師が、病気にかかった患者に対して、その個人的事情(偶然性)を理由に「個人責任だ、おまえが悪い」などと言って責任追及したとすれば、それはもう医師(指導責任者、リーダー)ではない。本当の医師(指導者、リーダー、政治責任者)はみな、この問題を引き起こした原因としての必然性(インフルエンザの流行という、この環境問題)に向かって闘うことに全力をあげる。たとえ、一部の人間、一人か二人の人間が悪人になったからといって個人問題だと考えずに、根本的には誰でもそうなる必然性としての環境問題に目を向けることこそ、真の科学的な態度というものである。

『さらば財務省―官僚すべてを敵にした男の告発―』(高橋洋一著・講談社刊)が証言した「人間は環境に支配される」という元大蔵官僚のこの実体験をよく聞け!

  人間は環境の産物であり、環境が人間を支配していく。同時に人間は自分の意志によって環境を支配していく、というこの真理を、みごとに立証した一つの証言がある。具体的事実の中に真理が隠されているこの事実に注目しなければならない。その事実とは二〇〇八年三月、講談社刊・高橋洋一著『さらば財務省―官僚すべてを敵にした男の告発―』の中にある。高橋氏は東大を出て、キャリア官僚として、大蔵省に入り、エリートコースを歩き、最終的には内閣参事官まで務めた。そして最後には官僚制度に失望し、官僚機構から脱出、官僚制を糾弾する闘いに移行した人である。その中の一節に、人間は環境の産物であり、環境によって支配されていくその姿がはっきりと記されている。氏はつぎのように言う。
 「多くの国民には、財務省(註・元大蔵省)は東京大学法学部卒の超エリートが蝟集(いしゅう)する日本一の頭脳集団だとの固定観念があるだろうが、私が内部の人間として実際にこの目で見た財務官僚は、個人としては優秀だが、組織としては、そんな社会通念からはほど遠かった。……財務省を始めとする霞が関は組織としてはまさに幼稚な集団である。……彼らの頭のなかには省利・省益しかないのではないかと思われることがある。なぜ、このような基本的な誤謬(ごびゅう)が霞が関でまかり通っているのかといえば、そのシステム自体が大きな問題を孕(はら)んでいるからである。典型的な官僚は、東大法学部を卒業し、外界とは隔絶された霞が関の内なる論理で純粋培養される。そして霞が関の住人になると、自分の頭で考えることは止め、すでに時代からは取り残されている役人の論理にひたすら従うだけになる。現在の年功序列制では、そうすることで将来が約束される仕組みになっているからだ。……官僚を目指す若者の気持ちは、もっと純粋だ。国の政策にタッチできる素晴らしい仕事だと、夢と希望を膨らませ、入省してくる。有名大学を卒業して、官僚になる人間には、それなりの自負がある。初めから落伍した後のことを考えるものなどいない。そんな無垢(むく)な心が、ややもすれば、年を経るにつれ、薄汚れていく。先輩に吹き込まれたり、現実に直面して、打算が働くようになるのだ。われわれぐらいの年代になれば、先がもう見えてくる。老後を考えれば、天下りほどありがたいものはないとなる。……官僚たちは、霞が関で生きるためだけに組織の意向に従い、いってみれば思考停止状態をずっと続けるわけで、仮に大学生の頃は優秀であったとしても、その後は一歩たりとも成長せず、逆に劣化しながら年月を重ねることになる。しかも、霞が関の大多数は東大法学部卒の同質集団なので、異なる価値観が入り込む余地がない。有能な人間を無能にしてしまう――これが現在の官僚システムなのだともいえる。……それに拍車をかけているのが、年功序列制による天下りシステムだ。ある年齢まで来ると出世競争で自分がどこに位置するのかわかって、どうせ先のない身、天下りできる日までぼちぼちやろうかと後ろ向きの考え方になってしまう。官僚は、日本の最高学府で学んだくらいだから、もともと頭は優秀なはずだが、努力しなくなるので、せっかくの潜在能力も磨かれなくなる。今の制度は、有能なはずの官僚の能力を殺すともいえる」と。
 右の一文をよく読めば、ここに人間とは何かということがみごとに、実体験にもとづく証言としてはっきりと示されていることがわかるはずである。哲学的帰納法にしたがうなら、これはまさに人間とは何かに関する絶対的真理である。
 高橋氏のこの一文のもつ哲学・科学的意味がわからないような人物は、まったく無知蒙昧な人間である。大学を出て、国家公務員試験に合格し、その社会的第一歩を踏み出した純真な青年は、社会生活の当初は夢と希望にもえ、国家のために、社会のために、国造りに向かって、大義に生きる心構えをもっていた。これが本来の、本当の人間であり、ここに本質的な人間性があり、ここに人間性善説がある。ところが、官僚主義という人間性悪説に移行するのは、実にその機構、官僚制というその制度、環境によって人間が変質してしまうのである。その姿は、高橋氏が生き生きと、みごとに書きしるしている。環境が人間を支配していくという原理がここに証言されている。そしてまた、人間は自分の意志にもとづいて環境を支配していくというこの原理も高橋氏の行動の中にある。つまり、官僚制の悪から脱出し、自覚し、認識した高橋氏は、自らの意志に従って、官僚制との闘いに身を置く、つまりは、官僚制というこの存在を逆に支配する(変革する)ための行動を起こした、ということである。
 「アキバ事件」をめぐる仲正氏らの右翼的知識人の知識とはまさに観念論的空想主義である。現実の世界、人類世界は、独占資本と帝国主義の本質、最大限の利益を追求するだけの物質万能主義、生産第一主義、拝金主義、人間性そう失、人格なき人間世界、これが生み出す戦争と内乱、テロと暴力、大量殺人兵器、この独占資本と帝国主義支配、この環境がいっさいの犯罪、戦争とテロ、殺人事件と各種犯罪、非人間的な無差別通り魔事件、不可解な犯罪を生み出す環境、元凶である。独占支配と帝国主義、人間欲望の自由放任主義という現代資本主義制度、この環境にすべての根源がある。そして人類社会はここから脱出せんとして苦悶(もん)している。その苦悶が戦争とテロであり、各種の犯罪である。人類社会はこうした激動を通じて転換を求めていく。現代社会の苦悶は、真の人間性と人間として生きる時代、近代コミュニティーを実現するための苦悶である。

「アキバ事件」の犯人、若い青年の現実への失望、苦しみ、怒りとは、本質的には現代社会がはらむ各種の矛盾への怒りであり、告発であると説く社会科学的見解に対して、仲正氏は「本人でもないのになぜわかる?」と批判する。否!「本人でないからこそわかる」のである。この哲学・科学原理がわからない仲正氏などはまさに悲劇(喜劇)的である!

事件を起こした青年は、自ら語っているように、現実の生活と自分の未来に対して絶望し、まわりのものに対して怒りをおぼえ、その結果としてあのような犯罪を犯した。そのとき、この青年に理性と知性と政治的・思想的自覚と認識があれば、こういう無差別な事件は犯さない。しかしこの青年にはそれがなかった。故に、この青年にかわって、そして同じ境遇に置かれている多くの青年にも向かって、知性と理性を説き、政治的・社会的思想認識を説く人々に対しては、それを称え、高く評価することこそ真の知性と理性ある人間の態度ではないのか。仲正氏などは、こういう態度がとれないことによって、自らの知性の低さをさらけ出してしまったのである。
 問題は、知性、理性としての哲学・科学なのだ。その原理とは、ビッグバンによって大宇宙が創生され、人類が生まれたその歴史が明確に証明しているとおり、万物は物質の運動であり、この物質の運動が、人間の頭脳を通じて理性と知性とあらゆる知識と科学を生み出していった。物質と心、肉体と精神、土台と上部構造、この二つは運動する物質として固く結びついた万物の二つの側面である。だがこの二つの側面はまったく別個のものであり、違った側面として存在している。このわかりにくい物語を、わかりやすい事実を通じて証明しよう。
 二〇〇二年度・ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏(当時・東大教授)は、二〇〇三年二月の日本経済新聞に書いた『私の履歴書』の中でつぎのように書いている。私たちが今日こうして科学的実験と研究によって証明していることがらというものはみな古代ギリシアの哲学者であるデモクリスト(紀前四六〇―三七〇)などが予言したことを、ようやく実験と研究によってその正しさを立証しているのである、と。ご承知のとおり、デモクリストは古代ギリシアの哲学者である。彼はこの時代から万物は運動する物質であり、原質は原子、アトムであると説き、運動する万物は永遠に不滅であると説いた。そして物質は同一であり、その物質をどう見て、どう判断するかはみな人間の頭脳が決定する。その頭脳と運動する物質とは、別個のものであるが、運動する同じ物質としての統一性は確立されたものである、と主張している。小柴昌俊氏は、このギリシア哲学が予見したことを、近代科学の発達と、その高度な技術を駆使して解明していったのである。哲学が予見し、科学が立証していく。この二つは別個でありながら、運動の中で統一されている。そして哲学は科学に先んじてそれを予見する。哲学者は科学技術者ではない。本人(科学技術者)ではないからわかるのである。仲正氏がいうように「本人ではないのになぜわかるのか?」ではないのだ。デモクリストの如く、別の角度から考える高い思想認識(頭脳労働)こそが本質を解明するのである。この二つは運動の中で統一されているが、まったく別個のものである。
 仲正氏は経済学を学んだことがあるだろうか。経済学を学んだ人ならみな知っていることである。近代資本主義経済学の源流はアダム・スミスの古典経済学説(『国富論』一七七六年)である。これは現代資本主義経済界の経典である。だがそのスミスは資本家でもなければ、経営者でもなく、本人ではない。スミスは学者であり、教室での研究者なのだ。仲正氏の言う「本人でもない(資本家でもなければ、経営者でもない)のになぜわかる?」のではなく、資本家でもなければ、経営者でもないからわかるのである。哲学はそのように示しているではないか。物質と精神、肉体と心とは、統一されているけれども、まったく違った二つであり、別のところから生まれる、という、哲学の示すとおりに、スミスの理論は彼の頭脳、その英知、知能から生まれている。
 この問題に関してマルクスはその名著『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(一八五一―五二)の中でつぎのように書いている。「(中小商工業者を代表する)民主党の代議士といえば、みな商店主(商工業者)であるか、さもなければ商店主のために熱をあげているのだ、と考えてもならない。彼らは、その教養や個人的地位からすれば、商店主とは天と地ほどもかけ離れていることもありうる。彼らが小ブルジョア代表者であるのは、小ブルジョアが生活において超えない限界を、彼らが頭の中で超えないからである。したがって、実践において物質的利害と社会的地位とが、小ブルジョアを押しやっていくのと同じ課題と解決へ、彼らが理論上(思想上)押しやられるからである。ある階級の政治上および文筆上の代表者の、その代表する階級に対する関係は、一般的にこのようなものである」と。この深遠な意味は仲正氏らにはわからないであろう。マルクスがここで言っているのはつぎのことなのである。つまり、物質運動、生産活動、実生活と実務に身を置いている人びとは、そのことの思想的、政治的、演繹的、俯瞰的な認識は自覚できず、認識できない(秋葉原事件の犯人は何もわからないまま犯罪を犯す)。そのかわりに、それにかわって、知的水準と、頭脳労働と、高い知識と英知をもった人間の頭脳によって、思想的・政治的・社会的な根本問題が解明されていく。そして運動の中で、この二つは統一される。だから、頭脳労働の産物としての思想と政治と社会的知識は、自覚していない人びとの中に、意識的に投げ込まれていく。
 だからレーニンはつぎのように言う。「理論と実践というこの二つの側面、この両者は、一方が他方から生まれるのではなく、並行的に生まれるのであり、またこの両者はそれぞれ違った前提条件のもとで生まれるのである」(『何をなすべきか?』一九〇二年)と。 小柴昌俊氏とデモクリスト、スミスと資本主義経済学など、歴史上の実際をみれば、すべては哲学原理のとおりではないか。だから、アキバ事件が起こったとき、犯罪を犯した本人の無知にかわって、知性と知識をもった人たちが、その本質を語ることは、誠に気高くも崇高な行為ではないか。この点に関しては、仲正氏など足元にも及ばない。

仲正氏はその一文のなかで「土台と上部構造」論や、「蟹工船」などは古い昔のことだと言って、これを現代と重ねて論ずるジャーナリストを批判している。その中身は誠にこっけいで、形式的で、空論で、自らの無知をさらけ出している。ここからもわれわれは哲学・科学思想を学ばねばならない!

「土台と上部構造」について


 仲正氏は「世の中で何か不条理な事件が起こるたびに、強引に、下部構造(=経済的生産様式)にその原因を求めようとするのは、かなりレベルの低いマルクス主義の発想である」という。そういう仲正氏自身が、かなり低いレベルの知識人であることに本人は気付かない。本人自身が「土台と上部構造」問題について何一つ知っていないのである。
 まず哲学(古代ギリシア哲学を出発点とした現代哲学)から出発しよう。宇宙と地球と人類の全世界は運動する物質である。これが土台なのだ。その上に生物、動物、人間が存在し、人間の脳を通じてあらゆる知的産物と、政治・思想が生まれ、政治機構が成立している。これが上部構造である。これは定説であって、こんな初歩的で、基本的な知識もないのであろうか。
 マルクスはこの定説にもとづいて、あらゆる出版物の中で、とくに『経済学批判・序言』(一八五九年)の中で、存在する現実の社会の構造は、土台としての経済活動(生産力と生産関係)があり、その上に、上部構造として、政治活動、政治制度、思想活動、宗教的・文化的活動が成り立っている、と論じている。これはマルクスが言い出したものではなく、古代ギリシア哲学の先人たちから、それ以後のあらゆる哲学者、科学者、知識人が断定していることであって、マルクスはそのことを、改めて体系化しただけのことである。例えば先に紹介した小柴昌俊氏と古代ギリシアの哲学者デモクリストのことでもはっきりしているとおり、宇宙の存在は運動する物質であり(これが土台となっており)、この物質の運動から思想・政治認識としての上部構造が生まれる、と断定している。
 地球という物質の運動(土台)があってその上にあらゆる生物が(上部構造として)存在している。人間は頭脳によって支配されているがこの重たい頭脳を支えているのは直立二本足歩行であって、土台としての足、腰、肩があって頭(上部構造)は存在する。人間と動物の違いは構造的にここに根本的違いがある。土台がしっかりしていないと高いビルも安定しない。ものごとの基本は土台作りからだという説はすべてに当てはまる定説ではないか。アダム・スミスの古典経済学の経典『国富論』とその背景にある『道徳感情論』をよく読むとおわかりのように、スミスは人間の本能としての、生きるため経済活動がすべての出発点(土台)であり、そこから道徳感情論(上部構造)が成立していく、と説いている。マルクスであろうと、スミスであろうと、この土台と上部構造の相互関係は、哲学・科学原理としての根本法則なのである。こんな初歩的で、基本的で、根本的な知識もない人物が、右翼知識人には多いことはなぜだろうか?

「蟹工船」など古くさい物語を持ち出すのは現代的でない、と仲正氏は言うが、この中にこそ哲学・科学的歴史観への無知がある


 仲正氏はその文書の中でつぎのように言う。小林多喜二がこれを書いた当時は過酷な労働制があり、そこからこういう事件も発生したが、今は違う。時代は変わって、労働組合運動は自由であり、不満があれば何でも言える民主主義の時代だ。そういう現代では「蟹工船」はもう古い昔のことにすぎない。それをことさら今の問題にするところに「サヨク」の思い過ごしがある、と。これは右翼ジャーナリストが言う、哲学・科学原理を知らない観念論的空論なのである。デモクリストなど古代ギリシア哲学が説き、近代の科学者がみな認めているとおり、万物は運動する物質である。その物質の基本単位は素粒子が元になって、そこから原子核が生まれ、それを核にして原子が生まれる。この原子の結合の度合い(運動の量)によって、それぞれの属性にもとづく物質が形成される。原子核―原子という物質の基本単位(質的内容)は万物を貫く基礎であり、永遠に不変である。そしてこの物質は運動の過程で、分離と結合を重ねつつ(運動の量の変化に応じて)その形態、性質、属性が千変万化する。この運動法則は一切を貫く。人類の歴史もそうである。その核心、質的内容、本質は変わらず、形態、形が変化していく。
 仲正氏などはこの哲学科学原理がさっぱりわからない。だから、蟹工船問題は、姿・形を変えて(量的変化の中で)、現在でもその基本・質的内容(非人間的な過酷労働)は続いているというこの歴史性がわからない。本質は同じであって、違うのは形だけなのだ。フリーター、非正規雇用、派遣社員、パート、格差社会、ワーキングプア、ホームレス、ネットカフェ難民、昔はなかったこのような形態は、姿、形を変えた現代の蟹工船ではないのか。ブルジョア的、右翼ジャーナリストにはわからないであろう。彼らは哲学・科学歴史観がないからそうなるのである。
 戦争についても同じことである。人類の歴史上戦争はつきものであった。その戦争の本質は、土地と領土と財産をめぐる争いであり、その本質はいつでも同じで変わりはない。しかしその姿、形、手段と方法は歴史時代によって常に変化していった。ここに哲学・科学法則がある。
 仲正氏などは世の中は豊かになったという。物は豊かになり、服装も立派になり、建物も立派になった。これは生産力が向上し、物質があふれ、社会の文化水準が高まった結果なのである。つまり、社会の向上である。しかしその反対に一人ひとりの人間の生活はそれに追いつくために、以前の人間よりも一層強く、多く働かねばならなくなっており、一人ひとりの生活が豊かになったわけではない。事実を見ればわかるように、以前から見て考えられないような人間生活、働く貧困層の増大(ワーキングプア)、格差の拡大、自殺者の増加、金と財産をめぐる非人間的な殺人事件、はますます一般化していく。昔はこんな事件などなかった。このことだけを見ても、昔から比べるとよくなったといえるだろうか。「三丁目の夕日」などは昔の夢になってしまった。人間性のそう失だけを見ても、如何に貧困化が進んでいるかがわかる。仲正氏の如き、右翼的知識人はすべて、小さな自分の生活と身のまわりのことだけしか見えず、宇宙と、人類と、人間社会全体、その未来を、俯瞰的に見ることができない。
 重ねて、もう一度哲学・科学思想認識論について提起する。宇宙と万物は運動する物質である。これが存在であり、これが土台である。そして運動とは発展、前進である。常に前へ、より高く、より広く進む。これは永遠である。そしてこのような運動は過去(歴史)を引き継ぐ。つまり過去の基本的要素を引き継ぎながら、現代の新しいものを附加していく。これが基本法則である。これが古代ギリシア哲学と科学思想からつづく現代の基本思想である。この哲学・科学思想からみるとき、蟹工船問題は先に明らかにしたとおり現代も生きている。仲正氏らの右翼ジャーナリストは空想的観念論があり、これはまさにプラグマティズムの見本である。そしてこれは新しい歴史時代によって必ず克服されるであろう古い政治思想である。
  • すべてを哲学・科学思想で支配せよ!
  • 宇宙と人類は永遠の過去から永遠の未来に向かって、絶えず運動し、発展し、前進していく。それは過去の基本的要素は引き継ぎながら、常に新しいものを附加しつつ!
  • こうして宇宙はさらに拡大し、人類社会はさらに発展したコミュニティーをめざしていく!
  • われわれの頭脳を演繹的で、帰納的で、俯瞰的なものにし、このような脳によっていっさいを支配せよ!
     人間は環境の産物である。同時に最終的には環境を支配していく。そして人間が支配する環境とは近代コミュニティーである。そしてこのコミュニティーが新しい型の人間を作り出していく。これこそコミュニティー社会に生きるコミュニティー的人間である。
                                        (以上)