〈最近の人民戦線の
重要基本文献集









歴史科学の法則は、老い果て、朽ち果てた古い制度を壊し、新しい時代たるコミュニティー共同体を求めて激動しているのである!

 塩野七生氏は一九七〇年代からローマに定住し、ローマ帝国崩壊をめぐる数々のローマ物語を発表している著名な作家である。この塩野七生氏が月刊雑誌『文藝春秋』十一月号に「イタリアの悲劇」と題する一文を寄せている。この一文は非常に注目する必要がある。後で紹介するように、イタリアの市民の実生活を通じてその悲惨な実態が紹介されている。
 この中にある本質は、決してイタリアだけの悲劇ではなく、資本主義の悲劇そのものである。つまり、塩野氏のレポートはイタリアの市民生活の実態を通じて、資本主義とは何か、資本主義に未来はあるのか、歴史は何を求めているのか、そういう本質を見事にえがき出している。だから大いに注目したいのである。
 さて、塩野氏が寄せた一文はどういう内容なのか。その主要なところを紹介すれば次の通りである。
 〔消費が冷え込むとは、かくも恐ろしいとは知らなかった。イタリアはこの二年、厳しい緊縮財政のおかげで深刻な不況にあえいでいる。
 かつてのイタリア人は、家族べったりと笑われるくらいに、家族を大切にする国民だった。だから、親が子を殺したり子が親をめった切りにしたりするような事件は、ほとんどと言ってよいくらいに起こらなかったのである。政府は信用しなくても家族は信用するという感じで、国旗も、赤白緑の三色旗のうえにファミーリアと大書きされたものであるべきと言われていたくらい。それが今では、親と子や夫と妻の間に起きる家族内の殺傷沙汰が、連日のように報道されるようになった。
 失業者、短期の非正規、もともとからしての未就業者、といういずれも安定した職がないということでは共通している人々が、二十代に留まらず四十代にまで広まったからで、この人たちが狭い家の中で顔をつき合わせるがゆえに増えた現象なのである。それで家庭内殺生も、貧しい家にばかり起こる。
 学校を出たら就職し、親から離れて独立し、クリスマスや夏のヴァカンスのときだけ家族全員が顔をそろえる、というのがイタリア人の生活だった。それが、クリスマスでもなく夏休みでもないのに、家族は常に顔をつき合わせる状態になってしまったのだ。子供が小さい頃は、同居していても占有する空間ならば小さいから、狭い家でも気にならなかったにちがいない。それが四十男や三十女になっては、しかも職がないので稼ぎもなしとなっては、気にさわる存在になるのは当然である。それに、普通の人間にとって自尊心を維持するのは、職を通じてなのだ。それを拒絶されたのを忘れるために麻薬に走り、ゲーム賭博に手を出すようになる。それに要するカネは、親にせびるしかない。
 以前からイタリアには、「カッサ・インテグラツィオーネ」という名の機関がある。辞書では「労働組合の給与補填基金」と訳しているが、足りなくなると国庫から補填しているから、実態は国による失業中の給与保証機関である。景気が悪化すると経営者は従業員をここに入れる。反対に上向くと従業員を呼び戻すので、景気悪化中は労働者をプールしておくのが、この基金のもともとの目的だった。…今、この基金に送られても呼び戻される可能性無し、が常態化しつつある。しかも、いつまでも「カッサ」にいられる保証はない。
 大企業に何十年も勤めてきた父親が、今や「カッサ・インテグラツィオーネ」中。母親は、夫が失業するとは思ってもいなかったので専業主婦のまま。大学まで出した息子は、就職氷河期の犠牲になって職が見つからない。未就職がつづいていると、経験者を求める求職からも遠のくばかりで、もうハローワークにさえも足を向けなくなった。同じく大学を出た娘は教職を望んでいたのだが、正規がなく非正規。毎朝二時間もかけて地方都市に行き一日二時間の授業を週に二日引き受けているのだが、それでもらう給料では独立などは夢。
 これがイタリアの労働者一家の、悲しいまでの現実である。口にしたちょっとした言葉が言われた側を深く傷つけるようになる。かつてイタリアの殺人は恋愛沙汰で起こっていたのが、貧しさと将来への不安と自分もふくめた人間全般への怒りで起こるようになってしまったのである。そしてこの悲劇の原因は、イタリアの企業が労賃の安い国に行ってしまったためにイタリア内の職が減少したことにもある。…
 こうしてイタリアでは、もともと余裕がないから消費しない人、正規社員ではあっても明日はリストラされるかもしれないので消費を控える人、に加えて、そのような職のない人までが消費しなくなってしまったのである。これが、家も自動車も売上三十パーセント減、という消費冷え込みの真因であり、消費が減れば失業者が増え、その失業者救済のために税金を上げ、それでまた消費が冷え込むという悪循環。政府は、従業員を新規に採用した企業には補助金を与えると決めたが、製品が売れないのに従業員を増やす企業があろうか。(九月二十二日記)〕と。
 そこで、もう一つ付け加えておきたいことがある。
 「イタリアの悲劇」は全世界的に起こっているのだ。イタリアだけの問題ではない。
 アメリカはどうか。
 ニューヨーク在住のジャーナリスト堤未果氏が二〇一三年六月二十七日に『(株)貧困大国アメリカ』と題する著書を出版した(岩波新書)。その中で堤氏は、いかにアメリカの貧困が深まっているかを次のように紹介している。
 〔アメリカの貧困率と失業者の数は、リーマンショック以来増え続けている。
 四人家族で年収二万三三一四ドル(約二三〇万円)という、国の定める貧困ライン以下で暮らす国民は現在四六〇〇万人、うち一六〇〇万人が子どもだ。失業率は九・六%(二〇一〇年)だが、職探しをあきらめた潜在的失業者も加算すると実質二〇%という驚異的な数字になる。一六歳から二九歳までの若者の失業率を見ると、二〇〇〇年の三三%から四五%に上昇、経済的に自立できず親と同居している若者は六〇〇万人だ。…
 いったい本当に価値のあるもの、守るべきものとは何だろう。国とは何か。「1%」に奪われようとしている、主権、人権、自由、民主主義、三権分立、決して数字で測れない価値について。市場の中で使い捨てにされる「モノ」ではなく、たった一人のかけがえのない個人としてこれらの原点を問われたとき、私たちは自らの意思で、どんな未来を描くのか。
 食、教育、医療、暮らし。この世に生まれ、働き、人とつながり、誰かを愛し、家族をいつくしみ、自然と共生し、文化や伝統、いのちに感謝し、次の世代にバトンを渡す。そんなごく当たり前の、人間らしい生き方をすると決めた「99%」の意思は、欲でつながる「1%」と同じように、国境を越えてつながってゆく〕と。
 同じように、十月二十六日付の朝日新聞は「NY 格差の都―億ション現金購入」と題する記事で、アメリカの貧困の状況を紹介しているが、「ニューヨーク、この街では数億円のマンションが右から左に売れる。関係者によると顧客の多くはヘッジファンド代表や海外の富裕層だという。
 ハーレム地区では毎日どこかで無料の食事が配給されている。働いても家族を養えずに配給に頼る人が増えたという」と。イタリアと全く同じである。
 以上、塩野氏の一文と、アメリカの貧困の実状を見てもわかる通り、これが資本主義だ、ということである。資本主義は、もはや人間が生きるところではない。だから、世界中で反乱が起こっているのだ。
 アメリカの民主党と共和党の対立。EUの大混乱。「アラブの春」の混迷。中国の政情不安。そのすべては、現代資本主義に対する大衆の反乱が根底にあるのである。こういう現代の歴史時代が、必然として巨大な爆発を生み出すのである。
 資本主義の崩壊からコミュニティー共同体へという、歴史科学の必然性は避けられない。歴史科学の法則を改めて、しっかりと、再確認しよう。

一、塩野七生氏のローマからのレポートが教えている通り、現代資本主義、独占資本と帝国主義の時代において、人民大衆の生活はますます絶対的にも、相対的にも貧困化していく。これは経済学と歴史科学の法則である。

 資本主義経済は商品経済である。この世界はすべてが商品であり、商品でないものはない。労働者も自分の労働力を商品として資本家に売って生活している。だから労働者も商品となる。
 そして商品は互いに交換されることによって経済活動、経済生活が成立する。だから資本主義経済は商品の交換が柱である。これが売買であり、商品の売買によって資本主義は動いている。
 商品の売買は等価交換である。それは同じ価格によって交換される。その価格を表現するのが貨幣である。人類社会の当初は物々交換であったが、そのときでも経験則(慣習)によって、自然に等価交換が実現されていた。
 等価交換とは、同じ値段で交換する、売買する、ということである。ではまったく姿も形も違う商品を、同じ値段として認めるその尺度、規準は何か。それは商品はどんな物でもみな労働生産物であり、どんな商品でもそこには労働力(働く力、能力、エネルギー、技術力)が使用されているから、万物を支配するこの労働力こそが価格決定の尺度、規準となる。これが労働力の価値である。
 商品価格の規準は労働力の価値である。その商品の生産にあたって、どれくらいの労働時間(労働力の使用時間)がかかったのか、ということが価値判断の基準となる。この価値が価格として表現される。
 ではその労働力の価値は何で決まるのか。それはその労働力を生み出す労働者の、その歴史時代が必要とする、生きていくための生活費の総額である。
 ところが、資本主義社会では、その商品に使用された労働力の使用量(価値、価格)で売買されても、資本家が労働者に渡す代金(賃金)は、価値の総額ではなく、その中の一部でしかない。つまり労働者の受け取る賃金とは食うことがやっとだというくらいのものであって、あとの価値の大部分は資本家の利潤となる。これが剰余価値であり、剰余労働である。
 これが価値法則であり、この価値法則が存在するかぎり、資本主義社会では貧富の格差拡大は必然であり、富める者はますます富み、貧しい者はいつまでも貧しいのは当たり前である。

資本主義と現代帝国主義の時代における絶対的・相対的貧困化について

 絶対的貧困化とは何か。これは、絶対的に、無条件に、人民の生活は悪くなり、人民の生活そのものは、絶対的に、無条件に、やりにくくなる、ということである。
 相対的貧困化とは何か。これは、ある対象と比較して(相手に比べて、人民の生活はブルジョアジーと比べて、労働者は資本主義の発展に比べて)ますます苦しくなり、低くなる、ということである。
 つまりは、労働者階級と人民の生活は、社会の進歩と発展に追いつけず、絶対的に苦しくなり、また同時に、ブルジョアジーや資本家の利益やその豊かさに比べて相対的にも苦しくなる、ということである。これが絶対的貧困化と相対的貧困化の意義であり、定義である。
 ではその具体的内容はどうなのか。労働者階級と人民は独占資本と帝国主義の支配のもとではどのように貧困化させられているのか。
 第一は人民大衆の生活そのものの危機である。
 失業とインフレと物価高。スタグフレーションという名の不況とインフレの同居した生活の困難さ。文化水準の向上、社会生活の向上に個人の収入が追いつかぬ。そこから生まれる格差社会、生活のひずみ。経済動物、働きバチ、過酷な主婦労働(パート)、サラ金地獄、借金苦、一家離散、離婚、片親の子供の増大、核家族、財産をめぐる親子・兄弟の殺し合い、自殺、他殺、心中の増大、人間性そう失、家庭の崩壊。
 第二は社会的危機である。
 社会的不公平の増大。貧富の差の拡大。難民の増大。空には大気汚染と汚れた空気、光化学スモッグ、各種公害と自然の破壊。精神病と神経病の増大。エロ・グロと退廃文化による人間性のそう失。あらゆる各種の犯罪の出現は安心して一人で歩けぬようになった。暴力はますます少年の年齢を下げ、小学校まで校内暴力を発生させている。非行少年の問題に、もはや活路はない。
 第三は政治的危機である。
 国家財政の破綻。国際収支の不均衡と通貨危機。政治の不安定。腐敗、汚職、買収。自由と民主主義の否定。国際間における通貨戦争と貿易戦争。原料資源をめぐる争奪。市場と植民地をめぐる対立と抗争。民族運動の高まりと独占間、帝国主義間の対立と紛争。テロ、ゲリラ、内乱、などである。人種暴動は世界各地のいたるところで発生し、貧困と飢えにさまよう流民は世界的な規模となっている。
 これが現代の貧困化であり、ここに独占支配と帝国主義の時代における絶対的・相対的貧困化がある。このような人民生活の危機はかつてなかったことであり、すべては現代独占資本と帝国主義の政治的産物である。
 マルクスは『資本論』のための基礎理論を展開した有名な著作『賃金、価格、利潤』におけるその結論でつぎのようにいっている。『資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均水準を高めるものではなくて、低めるものである』と。すなわち、マルクスは明確にその絶対的&n困化の法則をここでズバリとこのようにいい表している。
 さらにマルクスは『資本論』第一巻のなかで『資本が蓄積されるにつれて労働者の状態は、彼らの受ける支払いがどうであろうと、高かろうと低かろうと、悪化せざるをえないのである』と主張している。すなわちここでもマルクスは、労働者のうけとる賃金が相対的に高かろうと低かろうと、生活は絶対的にやりにくくなるのだということを右のように正しくも表現しているのである。
 そのうえでマルクスは、さらに理論を展開してつぎのようにいう。『たとえ労働者の絶対的な生活水準はいぜんとして同じでも、彼の相対的賃金、したがってまた資本家の社会的地位と比較した彼の相対的な社会的地位はさがったことになる』(『賃金、価格、利潤』)。『一方の極での富の蓄積は、その対極ではすなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側では、同時に、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野生化、および道徳的堕落の蓄積である』と。すなわちマルクスは右のように、ブルジョアジーの富の増大に比較して、すなわち相対的≠ノも労働者階級は貧困化するものであることを明確にしている。

二、資本主義の崩壊からコミュニティー共同体への道は歴史の要求であり、流れである。そして理論と実践の両面からすでに現実のものとなりつつある。

 歴史はすでに、自然発生的に人民大衆の手によって共同体が作り出されている。朝日新聞の二〇一二年二月九日付によれば、イタリア北部、フランス南部、スペイン北部の都市ではアメリカのスーパー出店に反対して、資本主義的大量消費と過剰な販売競争に巻き込まれるな、今までどおりの平和で平穏な生き方をまもろう、と「コンビビア(共同体)」運動を始めた、という。
 また、理論的にも現代資本主義の崩壊と、その先にあるのはコミュニティー共同体しかないという歴史科学の法則を、浜矩子氏と中谷巌氏という二人の学者が、現代政治・経済学の立場から証言をしている。

 浜矩子(はまのりこ)同志社大学大学院教授
 著名な経済学者で多くの著作を発表。二〇一一年十一月には高橋乗宣筑波大学理事長との共著で『二〇一二年資本主義経済大清算の年になる』(東洋経済新報社刊)を発表。独占的金融資本主義はやがて崩壊せざるを得ないと予告した。
 そして予告通り、二〇一二年は現実に、アメリカのリーマンショックと金融危機、EUの財政危機を通じて資本主義は崩壊へ進むことが明確になった。こうして二〇一二年十二月、その決算書ともなる著作『新・国富論』(文春新書)を刊行し、この著作を通じて浜教授は次のことを明白にした。
 @ アダム・スミスの『国富論』はもう古くなって現代の金融独占資本主義には通用しない。
 A 金融独占(金利を求めて経済を支配する現代資本主義)に未来はない。登り詰めた現代金融資本主義は老いてしまい、次の時代に席を譲るしかない。
 B 現代のようなグローバル(経済と政治と人間社会もすべてが国際的になった時代)世界は「国民国家」(国民のための国家・国民があって国家がある)を消滅させた。その先にあるのは地域を基礎にした人間性豊かな「共同体」しかない。ここに未来展望がある。

 中谷巌(なかたにいわお)一橋大学名誉教授
 日本の代表的政治経済学者で、一九九九年代、小渕内閣の諮問機関「経済戦略会議」の議長代理(議長は総理大臣)として日本経済のかじ取り役を務めた。その後アメリカの金融危機からEUの財政危機へ、そして世界的な失業と格差社会の出現を見て、現代資本主義の根本矛盾に目を向け、二〇〇〇年代初頭、グローバル資本主義と決別して悔い改めの書≠ニして世間に大きな反響をあたえた『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社刊)を出版。そしてついに自ら到達した政治経済学の未来について論断した書『資本主義以後を生きるための教養書』(二〇一三年二月十日、集英社刊)を出版し、ここで中谷教授は次のことを主張している。
 @ 資本主義は自己破壊していくと説いたマルクスの『資本論』の主張は正しかった。
 A 現代資本主義、金融グローバリズムが生み出した「衆愚政治・ポピュリズム」は民主主義そのものを機能不全に陥れてしまった。
 B 日本の進むべき道は古き良き伝統としての、人々の人間的つながりにもとづく、地域共同体(部落共同体・村の寄り合い)を基礎にした社会と国家以外にない。以上であった。
 浜教授と中谷教授がここで共通して論じていることは、われわれが一貫して提起している歴史科学の法則について日本を代表する二人の知識人が同じ事を違った言葉で展開していることにわれわれは注目するのである。歴史科学は必然の法則に基づいて、真理のもとに結集していくのだということを知らねばならない。

三、現代資本主義はもはや救いようがない。根本的な転換を求めて歴史は激動している。その先のあるのは、近代的コミュニティーである。これは歴史の必然である。

 歴史科学の必然性とは、人類の歴史を一貫して貫いている「生産力の発展が生産関係を規定している」という科学法則である。生産力(物を作り出す力、能力、その生産量)が生産関係(生産に携わる人びとの相互関係、国家と社会のあり方)を決定していく、という法則のことである。この問題は人類の歴史が示しているように、生産力のなかった原始共同体から、生産力が生まれた奴隷制、そして封建制から資本主義へ、独占と帝国主義に到達した歴史時代はついに人類の前史を終わり、新しい時代としてのコミュニティーへと前進する。ここに歴史科学の必然性があり、すべての現象と出来事をこの歴史科学の必然性から見つめねばならない。目的意識性をもった先進的人びと、知識人、そして前衛的分子はこの必然性に向かって大衆の先頭に立たねばならない。歴史は先進性と前衛性なしには必然性に到達しない。そして歴史はまたこの先進性と前衛性を生み出す。そのとき歴史の必然性を達成させる力こそ、投票による選挙ではなく、人民の要求を実現させる直接民主主義たる「評議会」である。
  • 人類とその社会は永遠の過去から永遠の未来に向かって運動し、発展し、爆発し、収れんされつつ前進していく。そのエネルギーは人間の生きる力であり、その物質的表現としての生産力である!
  • 生産力の発展がその度合いに応じて生産関係としての人類社会(国家)を作り出していった。それは最初の原始共同体、次の奴隷制、封建制、資本主義制、そして社会主義へと一貫して生産力の発展が生産関係(国家)を変化させていった。これからもそうなる!
  • 人類の歴史を見ればわかるとおり、一つの支配権力、一つの国家形態が永遠であったことは一度もない。歴史は常に運動し、変化し、発展し、転換して次々と新しい時代を作り出していった。そして歴史を見ればわかるとおり、変化は静かで一直線ではない。爆発と収れんは歴史法則である。歴史は必然を持って前を目指すが、その過程では常に偶然が伴う。偶然は必然のための産物であり、偶然は必然のための糧である。そして必然の世界とは人民の人民による人民のための世界であり、より高度に発展したコミュニティー社会である。歴史は到達すべきところに必ず到達する!
  • コミュニティーとは何か。人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ!
  • 生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする!
  • 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む!
  • 人間は生まれたときから環境の産物であった。環境が変われば人間も変わる。国家と権力が変われば国民は変わる!
  • 人類が最初に、はじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティー国家と社会へ。ここから本当の人民の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するだろう。
    (以上)