〈人民戦線実践論









アメリカ、ニューヨーク大学、ヌリエル・ルービニ教授は、資本主義崩壊の経済的必然性を断じたマルクスの学説は正しかった、と説く。歴史の進歩と発展は必然的にマルクス主義の復興を求めている!

十一月十八日付の日本経済新聞の紙面でルービニ教授は、米国発のバブル崩壊、連鎖した欧州の政府債務危機、金融危機、市場経済の世界的迷走、政府と中央銀行と現代経済学も処方箋を示せないという現状から何を感じたかについてつぎのように語っている。

 「数カ月か、一―二年後か、いずれ世界経済は壁に衝突する可能性がある…。

 ギリシャのユーロ離脱は時間の問題だろう。もしユーロが無秩序に崩壊へ向かえば、二〇〇八年のリーマン破綻より大きな衝撃となる…。

 世界的な金融危機と景気後退が再び訪れる可能性は排除できない…。

 私は社会主義者ではないが、資本主義は自己破壊的だとしたカール・マルクスの指摘は正しかった」と。

 以上のように語るルービニ教授はかつてクリントン政権下で財務省顧問を務め、二〇〇八年の米金融危機を的確に予測したこと、そして二〇〇六年時点で欧州債務危機の五年以内の到来を警告していたことで有名な学者であった。そしてルービニ教授のこの発言は、マルクス主義復興を予告する出来事としての最近のマルクス主義出版物の続刊、イギリスにおける『資本論』のベストセラー、旧ソ連圏の一般大衆の間にある社会主義への郷愁、などマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(一八五一―五二年)で予告しているとおり、歴史の進歩と発展は必ず人びとを真理に向かって自覚させ、目覚めさせていくという歴史科学の正しさを証明しているのである。

 さて、ルービニ教授がその正しさを確認した、マルクスの資本主義自己破壊の学説とは何か。それは一八五九年執筆の『経済学批判・序論』のことである。

 ここで改めてしっかり認識しなければならないのは、マルクスの経済学説は『資本論』だけではなく、むしろその前に『資本論』を書くための予備として執筆した『経済学批判・要綱』(一八五七―八年)、『経済学批判・序論』(一八五九年)、『経済学批判』(一八六一―六三年)、に注目すべきなのである。特に『序論』はエンゲルスがその『書評』(一八五九年)で書いているとおり、この短い一文の中にマルクス主義経済学の核心、経済学の根本思想が厳格に展開されている。これを知らずに経済学を論ずる資格はない。大月書店刊・大内兵衛、細川嘉六監訳〈マルクス=エンゲルス全集第十三巻〉『経済学批判・序論』の中の一節とはつぎのとおりである。

 『人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。

 これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。

 物質的生産の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。

 社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる。

 このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、それで人間がこの衝突を意識するようになり、これとたたかって決着をつけるところの法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。

 一つの社会構成は、それが生産諸力にとって十分の余地をもち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されてしまうまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、もっと詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。

 大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式が経済的社会構成のあいつぐ諸時期として表示されうる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わる』

 マルクスのこの一文はエンゲルスが断言するように、ここに経済学の根本原理があり、ここに科学としての経済学があり、ここに経済問題のすべてを解くカギがある。これがわかる人こそ真の経済学者である。そして現代の世界に出現している米国のバブル崩壊、欧州の政府債務危機、金融危機、市場経済の世界的迷走、これに正しい処方箋を示せない政府・中央銀行・経済学、という現代の歴史時代、歴史の発展と前進という歴史が人びとに「さあどうするのか」と問い掛けるのと同じように、ルービニ教授にも問い掛け、そして教授はこれに答えた。その結果が教授の日本経済新聞での回答「マルクスは正しかった」という結果だったのである。

 そして歴史科学として重要なことは、この歴史の流れは必然の法則として今後ますます広がり、拡大し、やがて巨大な流れとなって歴史を前へ前へと押し進めるだろうということである。歴史は科学としてあくまで必然の道を進む!