〈最近の人民戦線の
重要基本文献集









 

EUの現状と運命こそ、現代資本主義の現状と運命の象徴であり、資本主義の崩壊から近代コミュニティー共同体への転換は歴史科学の必然性であり、歴史はそのために直接民主主義としての評議会を求めている!

 今年の「世界経済フォーラム」(ダボス会議)は、一月二十三日に開かれ、二十七日に閉幕した。ダボス会議はスイスの実業家で大学教授でもあったシュワブ氏の提唱で発足した「世界経済フォーラム」が、一九七一年から毎年一月にスイスの保養地、ダボスで開催する年次総会。各国大手企業のトップのほか、各国政府の要人、研究者、芸術家などの招待者が一堂に集い、世界経済や政治のほか、環境など多様なテーマについて議論するため、世界中の注目が集まる。
 「壊滅的な危機の恐れは薄れたが、霧は晴れそうにない。今年のダボス会議はそんな空気に満ちていた」(一月二十八日付日本経済新聞)。欧州の危機は、いま現在は何とか収まっているが根本的な問題は何一つ解決せず、ダボス会議は不安を持ったまま終わったのである。ギリシア、スペイン、イタリア、ポルトガル、アイルランドへと国家の財政危機は広がっている。アメリカは年末年始「財政の崖」を何とか超えたものの依然として財政危機は続く。「アベノミクス」で話題の日本も、世界のどの国もみな同じである。そして各国に共通する格差社会、大衆の貧困化、青年の失業率の高さは政権を悩ましている。もう打開策も、根本的解決もなく、目先の対症療法に追い回されている。EUでは「南北問題」に加え、若者の失業率は大きな政治問題になっている。ドイツのメルケル首相がダボスで「若者の失業問題は欧州の大きな重荷」と発言したが、国際労働機関(ILO)によると世界の失業者は初めて二億人を超える見通し。ギリシアやスペインでは若者の二人に一人が失業している。これはもうEUばかりか現代世界の大問題である。
 そこで爆弾宣言したのがイギリスのキャメロン首相であった。一月二十三日、ダボスに向かう前ロンドンで演説し、近いうちに「英国はEUを脱退するか否かの国民投票を行う」と発言したのである。これはEUを牛耳るドイツに対する挑戦状であった。EUで恩恵を受けているのはドイツとフランス、特にドイツは一人勝ちであり、他の諸国は何の利益も恩恵も受けていない。何の恩恵にも預からず、国家財政に苦しむイギリスがなぜEUに残ってギリシアやスペインなど南欧の破綻国家を手助けせねばならないのか、というわけである。
 EUという現在のヨーロッパ共同体はコミュニティー的な真の共同体ではなく、資本主義的共同体である。自由競争という名の市場原理主義、弱肉強食の世界であり、強いものが勝ち、弱いものが負ける世界であり、資本主義そのものである。だからドイツやフランスはEU各国に緊縮財政を迫るのである。当然格差社会が生まれ、大衆の貧困化は進み、大衆の怒りは高まり、EUの危機はますます深まり、国家財政は破綻していく。真のコミュニティー的共同体でない以上、当然の結果であり、共同と連帯、助け合いの精神などあり得ない。
 イギリスの不満はEU全体の空気でもある。国家財政の破綻はギリシア、スペイン、イタリア、アイルランド、ポルトガルなど、南欧州へ、そして欧州全体へ、と広がり、もはや自分の国のことで精一杯となった。イギリス同様、EU脱退の声は多くなっていく。しかし、イギリスが脱退するとEUは雪崩を打って崩壊へ、グローバル化した資本主義は音を立てて崩壊する。だから切羽詰まったドイツ、フランス、そしてアメリカも必死にイギリスに「脱退するな」と説得(圧力)に入ったのである。
 イギリスばかりか、EUで恩恵を受け、一人勝ちしているドイツまでもがEUに不平、不満を言っている。ドイツ国民の間にはギリシアなどの破綻国家を支援することについて根強い怒りがある。イソップ物語の『アリとキリギリス』の話である。ドイツ国民(アリさん)は暑い夏の日、寒い冬(困難)に備え、一生懸命に働いた。それに比べギリシア国民(キリギリスさん)は忠告も聞かず、遊んでばかりいた。そんな国(キリギリスの国)に冬が(破綻)が来たからと言って、われわれがかね≠ワで出して助けねばならないのか。こういうドイツ国民の声がメルケル政権を揺さぶっている。一月二十日、ニーダーザクセン州議会選挙が行われたが、メルケル首相の与党は野党に敗北した。この度の地方選挙は九月にあるドイツ連邦議会選挙の前哨戦と言われており、メルケル政権にとって大打撃であった。イソップ物語のアリさんの怒りにメルケル政権も安穏としてはいられないのである。
 各国の政権はみなぐらついている。根本問題が解決しないことが原因である。国家財政の赤字、経済的不況、貧困と格差、若者の失業、これらすべては資本主義とその国家権力の拝金主義が生み出すものである。故に資本主義の枠内では解決せず、各国の政権はみな対症療法と先送り論に陥ってしまった。そしてこれらは現代資本主義の病と苦悩の表れとなった。ここに資本主義の危機、行き詰まりがあり、もう資本主義はやっていけなくなったのである。EUだけでなく全世界が同じ問題に突き当たっている。ギリシアではついに一月テロ事件が起こった。資本主義との闘いが始まったのである。
 アダム・スミスとその古典経済学は完全に破綻している。彼のいう「人間欲望の自由放任」の世界、資本主義と独占支配の世界は戦争と殺りく、暴力と犯罪、欲望のままの世界であり、アダム・スミスの言うところの「見えざる神の手」などどこにもなかった。もしもあるなら、ここが「神の手」の出番である。出してみよ! まったく通用しないではないか。自由放任、無政府主義、無計画性という現代資本主義経済学の産物としての世界的金融危機であり、資本主義崩壊は必然の結果なのだ。けっして英国の責任のみに帰する問題ではない。
 だから、アメリカ、ニューヨーク大学のヌリエル・ルービニ教授は「世界的な金融危機と景気後退が再び訪れる可能性は排除できない…。私は社会主義者ではないが、資本主義は自己破壊的だとしたカール・マルクスの指摘は正しかった」と断言するに至ったのである。

(一)経済学は科学である。そこにおける法則は歴史科学の法則に従っている。原始時代から奴隷制へ、そして封建制から資本主義へ、最後は帝国主義に到達し、やがて帝国主義は崩壊し、歴史はコミュニティーへ進む。経済学はこの歴史科学にもとづいて展開されなければならない。歴史はそのように進んでいる。

 十九世紀の世界に近代労働者階級が巨大な勢力として歴史の舞台に登場した。同時に、これと併行して、マルクスの頭脳が(その頭脳労働が)労働者階級の運動と闘いへの灯台・羅針盤としての思想と理論を生み出した。そしてその中の経済学の分野は『資本論』(一八六七年)に代表される。
 その核心を一言で言えば「人間が生きるための力、その生産力の発展が、人間の相互関係、国家と社会制度を変化させていく」という科学的法則である。経済学とは『史的唯物論』にもとづく人間の歴史、その経済史でなければならない。その基本的概略はつぎのとおりである。
 (1)生産力がなく、したがって生産活動もなかった人類最初の社会は、すべてが大自然を相手にした共同採集経済であり、それを土台にした共同体・コミュニティーー社会、社会的人間道徳の世界であった。
 (2)生産力の成長と発展による生産活動の飛躍は余剰生産物(備蓄)を生み、財産となる。そこに個人的欲望にもとづく財産をめぐる争い、対立と抗争、戦争と内乱が発生、権力機関としての国家が成立。生産力の発展が生産関係を変化させる第一歩がはじまった。
 (3)生産力の発展が生産関係(国家と社会制度)をつぎつぎに変化させ、発展させた人類の歴史をしっかりとみつめよ。ここに歴史科学・社会科学としての経済学がある。
 (4)原始共同体から奴隷制へ、そしてつぎの封建制へと歴史は転換していく。それを促したのは生産手段の発達(機械と用具の木製から金属製へ、単純なものから複雑なものへ、改良、改革、発明、発見)にもとづく生産力の向上であった。このことがそれまでの奴隷労働(奴隷制)ではなく農奴(封建制)を求めていった。奴隷制国家から封建制国家への転換は歴史の必然であった。
 (5)生産用具(生産手段)のいっそうの発展は、手工業的家内工業から、大規模な工場制工業となる。その結果製品は大量となり、交換経済は商品流通を生み、すべては商品となる。そこから貨幣が登場し、貨幣の所有者(ブルジョアジー)が社会の主人公となる。同時に経済活動は自由な商品としての労働力(労働者)を求め、農奴解放(奴隷解放)を求める。近代自由主義、資本主義の到来である。
 (6)自由主義から出発した近代資本主義、人間欲望の自由放任主義、その自由主義経済はもはやその頂点に達した。独占と帝国主義の時代は登り詰め、らん熟し、腐敗し、能力を失い、次の時代に移行せざるを得ない人類前史の最後の段階である。人類は大衆社会、人民の世界、近代的コミュニティーへの転換を求めて激動しているという、現代の時代認識を知ろう。
 以上が科学的経済学の核心である。
 歴史科学はこの法則(理論)通りに進んでいることは明白である。

(二)現代世界のあらゆる事件や出来事、それぞれは別のものではなく、現代世界の資本主義の危機、そこから抜け出るために歴史はコミュニティーーを求めている。そういう歴史時代が根底にあってそれぞれの現象を生み出しているのである。

 あらゆる問題の根本は国家と権力の問題であり、すべては権力闘争である。政治運動と政治問題、あらゆる社会問題と諸現象の根本は、結局は国家と権力の問題に行き当たる。つまり、国家と権力の性質、性格。それを誰が支配し、何のために行使しているのか、というこの本質が一切を決定する。すべての運動と闘いは、結局は権力をめぐる争奪戦なのである。
 資本主義の最高の段階、独占資本主義国家の政治上の権力は独占資本(財界)とその政党(保守政党)と官僚組織(官僚支配)の三結合、つまり政・官・財の癒着した支配体制である。彼らの権力支配の目的は一貫して、尽きることなきその本能的欲望たる最大限の利潤(最高の利益)追求が第一であり、生産至上主義、物質万能主義、拝金主義である。そのための手段が、人間欲望の自由放任であり、自由競争という名の市場原理主義であり、それはまさに弱肉強食の世界であり、生殺与奪の世界であり、貧富の格差拡大の世界である。そこから人間性そう失、人格否定、あらゆる種類の犯罪社会の出現である。戦争と内乱、暴力とテロ、汚職と買収、腐敗と堕落もすべてはこのような国家と社会と権力が生み出す必然の産物なのである。すべての根源は実に国家と権力の問題なのである。
 もう一度、われわれは歴史科学について結論付たい。
 人類の歴史は原始時代―奴隷制時代―封建制時代―資本主義時代へ、そして現代独占資本と帝国主義の時代に登りつめた。資本主義の頂点に達した現代、らん熟し、腐敗し、堕落してしまった現代、その権力はもはや統治能力を失ってしまい、もはや老いてしまったのである。
 こうして現代、地球上最後の帝国、アメリカ帝国主義の崩壊と、新しい世界の出現に向かって爆発し、収れんされつつある。今後は、それぞれの国家は自立し、民族は独立し、大衆は自覚し、こうして最終的には、人民の人民による人民のための世界、つまりは近代コミュニティーへと収れんされるのである。
 歴史はすべての分野で歴史科学のもと、一歩一歩確実に、前へ前へと前進している。現代世界は、資本主義は行き詰まり、民族は独立し、国家は自立し、大衆は自覚し、こうして歴史はコミュニティーへと科学法則にもとづいて動き、転換している。
 例えば、朝日新聞二〇一二年二月九日付の報道では、ヨーロッパ共同体(EU)の経済危機の中で各地に自衛のため地域共同体社会を作る運動が広がっている、と伝えている。イタリア北部の都市ブラ、フランス南部のトゥールーズ、スペイン北部のサルバテラ、などではアメリカのスーパー、マクドナルドの出店に反対し、「地中海のゆるやかな暮らしは変えなくていい。過剰な消費をやめ、慎み深かった頃に戻るべきだ」「食べ残しを減らそう、過剰な消費を考え直そう」「今の危機は、麻薬に侵されたような成長とスピードばかりを優先してきた資本主義のあえぎだ。正すべきは、それに侵された私たちの生き方だ」という大衆の声を広く呼びかけ、「コンビビア(共同体)運動」を開始、それはヨーロッパの各地(一二〇ヶ国)に広がっている、と。
 そして二月二十七日付日本経済新聞のコラム「春秋」は次のように報じている。「七年前、ハリケーン襲来で土地の八割が水没した米ニューオーリンズ市が変身しつつある……人口当たりの起業家数は災害前に比べ倍増し全米の平均を超す。半減した人口も八割近くまで戻った。原動力は二つ。一つはコミュニティーだ。市長や議会がシンクタンクやコンサルタントと机上で描いた再開発案を捨て、民主導で小さな地区毎に集会を開き、未来図を練り上げた。もう一つは他の町の若者たち。学生、ビジネスマン、希望者を募り、呼びかけ、新しい未来に挑戦する青年の力を動かした」と。
 新しい歴史時代が、もう時代遅れになった旧い自由競争から、連帯と協力と共同の人間性豊かなコミュニティーを求めて動く時代、コミュニティー共同体が出現しつつあるのである。現実にもうこうなっているのである。

(三)資本主義制度、ブルジョア議会主義(間接民主主義)は、らん熟し、腐敗し、堕落してしまった。歴史は人民による直接民主主義(評議会)にもとづくコミュニティー共同体を求めて前進している。

 先に明らかにしたとおり、ヨーロッパに自然発生的にせよ、現実にコミュニティー・共同体が生まれている。空想ではなく、現実に多くの地方都市に生まれている。この事実を見よ。また、アメリカのニューオーリンズの災害復興に当たってはコミュニティー制度が採用されたことも明らかになっている。つまり、崩壊した後の復興にはコミュニティー・共同体しかないのだ。コミュニティー・共同体こそが本当の力になることを歴史が証明している。
 投票によって政府や政治家を選ぶという方法が出現したのは紀元前五世紀の古代ギリシアであった。ギリシアには当時多くの都市国家(ポリス)が生まれたが、その中のアテネは早くから市民参加型の政治が発展し、やがて投票によって政治指導者を選ぶ方法が採用されるに至った。そして投票用具に用いられたのが陶器の破片であった。投票の結果、市民に人気のない指導者は追放された。そこから歴史上「陶片追放」という言葉が生まれた。結果としてこの制度は、結局は人気投票となり、そこから大衆迎合(ポピュリズム)という悪しき風習が作り出されてしまった。そしてそこからこの方法は政治指導者や、政党間にとって人気取りの政争道具になってしまった。アテネでは政治の無能力と分裂を生み出し、国力は低下し、やがて隣国のスパルタに敗北してしまった。
 しかしこの制度は大衆支配の手段、ブルジョア自由主義の装飾物として、より巧みに引き継がれていくのである。つまりは大衆の理性・自覚ではなく、その本能を利用し、本能を駆り立て、自由主義を叫びたて、風の吹くまま、気の向くまま、行き当たりばったり、そのときの個人的感情によって誰かに投票するという、まさに無政府主義、愚民主義、衆愚主義という、ブルジョア政治の根幹になってしまったのである。
 真の民主主義とは、自覚された人民大衆の共同の意志、共通の認識、協同行動にもとづく政策の確立と確認、である。人民大衆は、生産点、生活点、つまり労働と生活の中で、互いに協力し、共同し、共通の要求にもとづく運動と闘いの中で、連帯し、交流し、自らのコミュニティーを作り上げていく。ここに真の民主主義がある。その集大成されたものこそ「評議会」である。
 人民大衆はすべての分野、すべての戦線毎に、自分自身の足場として、母体としての評議会を結成する。そこで自らの共同の意思を統一して、確認して、これを地域的な、全国的な、評議会に結集していく。この地域的な、全国的な評議会が人民戦線であり、人民評議会であり、自らの権力そのものなのである。この権力を独占支配の権力と対決させ、人民戦線運動を母体に、独占資本の権力と対峙し、情勢と条件、力関係に応じて、国家権力を変革させよ。こうして直接民主主義が実現され、大衆社会とコミュニティー共同体が実現する。

結び

 人類の歴史は原始時代―奴隷制時代―封建制時代―資本主義時代へ、そして現代独占資本と帝国主義の時代に登りつめた。資本主義の頂点に達した現代、らん熟し、腐敗し、堕落してしまった現代、その権力はもはや統治能力を失ってしまった。もはや老いてしまったのである。
 歴史の到達点はコミュニティーである。人類が最初に作り出した原始共同体社会は、より発展し、前進し、より高度になって元に帰っていく。階級なき共同体、自覚し、認識し、確認しあった共通の意志にもとづく直接的な民主主義としての評議会を通じて、生産も、分配も、統治も、すべては共同体の中で執行される。人類最初の社会はそうであったのだ。これはすべてわが『人民戦線綱領!』が示しているとおりである。
 コミュニティー社会では階級支配は基本的には消滅する。共同体社会であるかぎり、そこには人民大衆、ただ一つの階級社会である。人民の人民による人民のための社会である。故にこのような社会(存在)が、そのような存在(環境)がそれにふさわしい人間を作り出していく。環境が人間を作り出す。新しい時代と新しい社会と新しい環境が新しい型の人間を生み出す。こうして人類の前史は終わり、人類社会は新たな闘いに向かって前進する。それは全宇宙との闘い、宇宙の開拓と開発の闘いである。
 人類の歴史を見ればわかるとおり、一つの支配権力、一つの国家形態が永遠であったことは一度もない。歴史は常に運動し、変化し、発展し、転換して次々と新しい時代を作り出していった。そして歴史を見ればわかるとおり、変化は静かで一直線ではない。爆発と収れんは歴史法則である。歴史は必然を持って前を目指すが、その過程では常に偶然が伴う。偶然は必然のための産物であり、偶然は必然のための糧である。そして必然の世界とは人民の人民による人民のための世界であり、より高度に発展したコミュニティー社会である。歴史は到達すべきところに必ず到達する!