2014年(平成26年)5月25日付 417号


「資本主義の終焉」は哲学・歴史科学から見て必然的である。エンゲルスの『自然弁証法』(一八七五年)が教えているとおり、「万物を支配しているエネルギーの運動法則」がすべてを解明している!

 最近注目すべき本が出版された。水野和夫(一九五三年愛知県生まれ。日本大学国際関係学部教授。早稲田大学大学院経済学研究科修士課程終了。三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストを経て、内閣府大臣官房審議官・経済財政分析担当、内閣官房内閣審議官・国家戦略室を歴任)著、集英社刊『資本主義の終焉と歴史の危機』である。
 一六世紀以来、世界を規定してきた資本主義というシステムがついに終焉に向かい、混沌をきわめていく「歴史の危機」。世界経済だけでなく、国民国家をも解体させる大転換期に我々は立っている。
 こういう大胆で明快な言葉で述べる氏の論旨はなにか。その核心部分をここに紹介し、そのうえでわれわれの哲学・歴史科学観を明確にしたい。氏の論旨の核心はつぎの諸点である。
 ▽資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステムです。「アメリカのグローバリゼーションが叫ばれている現代、地理的な市場拡大は最終局面に入っていると言っていいでしょう。もう地理的なフロンティアは残っていません。また金融・資本市場を見ても、各国の証券取引所は株式の高速取引化を進め、百万分の一秒、あるいは1億分の一秒で取引ができるようなシステム投資をして競争をしています。このことは、「電子・金融空間」のなかでも、時間を切り刻み、1億分の一秒単位で投資しなければ利潤をあげることができないことを示しているのです。つまり、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなってきているのです。資本主義を資本が自己増殖するプロセスであると捉えればそのプロセスである資本主義が終わりに近づきつつあることがわかります。
 ▽もう資本主義というシステムは老朽化して、賞味期限が切れかかっています。しかも、二一世紀のグローバリゼーションによって、これまで先進国が享受してきた豊かさを新興国も追い求めるようになりました。そうなれば、地球上の資本が国家を見捨て、高い利潤を求めて新興国と「電子・金融空間」を駆け巡ります。その結果、国民経済は崩壊して、先進国のみならず新興国においてもグローバル、エリートと称される一部の特権階級だけが富を独占することになるはずです。
 ▽資本主義の終わりの始まり。この「歴史の危機」から目をそらし、対症療法に過ぎない政策を打ち続ける国は、この先、大きな痛手を負うはずです。
 ▽「世界の工場」といわれる中国ですが、輸出先の欧米の消費は縮小しています。この先、一九九〇年代から二〇〇〇年代前半までのような消費を見込むことは不可能です。アジアの中でも中国は、日本、韓国、ASEAN諸国と領土問題を抱え、関係は悪化するばかりですから、対アジア輸出も今後はかげりを見せることでしょう。やがてバブルが崩壊します。
 ▽もはや近代資本主義の土俵のうえで、覇権交替があるとは考えられません。つぎの覇権は、資本主義とは異なるシステムを構築した国が握ることになります。
 以上である。これが水野氏の論旨である。誠に大胆で明快である。われわれはこの論旨を評価し、賛成し、支持する。同時にわれわれはこの論旨をさらに前に進め、昇華させ、明確な展望を示すため、哲学・歴史科学から論ずる。ゆえにこの論旨は人類社会の政治と経済についての過去と現代と未来に関する指針でもある。


(一)全宇宙と万物を支配する鉄の法則、それはエネルギーが生み出す永遠の運動であり、存在するものはすべて、一貫して、運動し、前進し、発展し、転換し、止揚されていく。これがエネルギーの法則であり哲学・歴史科学である!

 宇宙の創生から人類の歴史をふくめて、万物はエネルギーの運動にもとづいて絶え間なく運動し、前進し、発展し、転換し、止揚されつづけている。ここに哲学・科学的歴史観がある。故にわれわれはどのような事件、事実、出来事にもこの歴史観にもとづいて正しく対応しなければならない。そうしなければ、いつかは、どこかで、何かによって、必ず歴史によって否定されていく。長い歴史過程からみるとき、歴史上の英雄に代表されている栄枯盛衰をみれば明らかである。その哲学・科学的歴史観の根本理念を説いている文献こそエンゲルスの著作『自然弁証法』である。ここにすべてがある。その核心をここに記すことにする。最小限これだけはしっかりと認識したい。それはつぎの項目である。

エンゲルス『自然弁証法』の核心!

 「(ダーウィンの進化論によって)無機的自然と有機的自然とをわかつ溝は最小限にまで縮小され、生物の進化論にそれまで対立していたもっとも本質的な難点の一つがとりのぞかれた。新しい自然観はその根本的な点において完成した。いっさいの硬化したものは解消され、いっさいの固定したものは消滅し、永久的なものとされていたいっさいの特殊なものは一時的なものとなり、全自然は永遠の流転と循環とのなかで運動することが証明されたからである。
 こうしてわれわれはふたたび、全自然は、最小のものから最大のものにいたるまで、砂粒から太陽にいたるまで、原生生物から人類にいたるまで、すべて永遠の生成と消滅、たえまない流転、やすみなき運動と変化のなかに存在するという、かのギリシャ哲学の偉大な創始者たちの見かたにたちもどったわけである」
 「自然科学の世界で最初の突破口を開いたのは、自然科学者ではなくして、一人の哲学者であった。カントの『天体の一般自然史と理論』は一七五五年にあらわれた。最初の天体に関する疑問はとりのぞかれた。…自然はあるのではなく生成し、消滅するのだ」。
 「いまや現代自然科学は、運動の不滅の原則を哲学から採用しなければならなくなった。それなしには自然科学はもはや成立できなくなったのである。…運動はあらゆる外的条件との連関のなかで存在するが、根本的には運動する万物それ自身に内在する力学的能力、エネルギーが運動の不滅性を確定しているのである」
 「無限の時間のうちで永久に反復しつつ継起する宇宙の変化は、無限の空間に並列共存する無数の宇宙の存在に追加された論理的捕捉でしかない」
 (註・二〇〇二年度ノーベル物理学賞を得た東大の名誉教授小柴昌俊氏は、二〇〇三年二月中、日本経済新聞に連載した『私の履歴書』のなかで「私たち科学者は、古代ギリシャの哲学者デモクリトスが予言した宇宙論を科学的に立証している」と書いている)
 なお付け加えるなら、小柴教授がいう「古代哲学者」のところを「エンゲルスの自然弁証法」に変えると現代的である。
 エンゲルスのこの文献は哲学・歴史科学の根幹であり、古典である。その理由は、現実の宇宙世界、地球の世界、人類の歴史と世界、現代科学の到達点という事実がそれを証明しているからである。事実をみよ。
 現段階の宇宙・物理学の、科学的究明の到達点は「宇宙は加速的膨張を続けている」ということであり、「宇宙は一つではなく多くの宇宙がある」という事実である。これはエンゲルスがその文献の中で、すでに一四〇年前に解明していることなのである。
 エネルギーについても同じことである。エンゲルスはここでも「万物それ自身に内在する力学的能力、エネルギーが運動の不滅性を確定している」と断言している。今ごろになって科学者たちは、不思議なエネルギー(暗黒エネルギー)がビッグバンを引き起こしていると主張する。
 エンゲルスのいう通り、宇宙と世界は永遠の過去から永遠の未来に向かって、生成流転していくのである。資本主義は不滅だなどという論は現実から離れた空想の世界でいう妄想である。
 古代ローマ帝国は歴史の流れの中で内部崩壊した。最初の帝国主義国スペインはイギリスに席を譲り、そのイギリスも、七つの海を制したユニオンジャック(イギリス国旗)もやがてアメリカ帝国主義の支配下に屈し、そのアメリカ帝国主義も現代崩壊の道を進んでいる。「栄枯盛衰世の習い」とはこのことであり、エンゲルスのいう「生成流転」とはこのことである。
 空論ではなく事実から出発せよ。事実の中に真理がある。だから「賢者は歴史に学ぶ」のである。


(二)人類社会の歴史をみればわかるとおり、エンゲルスが説いた哲学・歴史科学の運動法則通りに世界は動いてきたことがわかる。その法則を一口で言えば「生産力(労働能力と機械)の発展が、生産関係(国家と社会制度)を決定していく」という法則である。このことを理論と実践の両面から確認する!

 マルクスは大著『資本論』を執筆する前に、その予備著作として『経済学批判』を書いたが、その『序言』(一八五九年)において次のように論じている。これがエネルギーの運動にもとづく社会変革の核心的法則である。
 「人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。
 これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。
 物質的生産の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。
 社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる。
 このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、それで人間がこの衝突を意識するようになり、これとたたかって決着をつけるところの法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。
 一つの社会構成は、それが生産諸力にとって十分の余地をもち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されてしまうまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、もっと詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。
 大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式が経済的社会構成のあいつぐ諸時期として表示されうる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わる」
 そしてエンゲルスの『自然弁証法』は次のように言う。
 「全自然は、最小のものから、最大のものに至るまで、砂粒から太陽に至るまで、原生生物から人類に至るまで、すべて永遠の生成と消滅、たえまない流転、やすみなき運動と変化の中に存在する」
 「人間もまた分化によって発生する。それは一個の卵細胞から自然が作り出すもっとも複雑な生物体にまで個体として分化していくばかりでなく、歴史的にも分化していく。幾千年もの苦闘の末、ついに足から手の分化がおこなわれ、直立歩行が確立されたとき、ここに人間は猿からわかれ、節をきって明瞭に発音される言語の発達のための基礎と、脳髄の強大な発達のための基礎とが築かれた。そしてこのような脳髄の発達によって、人間と猿をわかつへだたりは以後こえがたいものとなった。手の特殊化―それは道具の出現を意味し、道具は人間特有の活動、人間の自然への変革的反作用、生産を意味する―手と共に着実に頭脳が発達していき、意識も発達し、自然法則の洞察が生まれ、自然科学の知識も発達していった。もし脳髄の発達が、手と共に、手と並んで、相関的に発達しなかったなら、とうてい手だけでは蒸気機関は完成されなかったであろう」
 こうして人類は生産力という物質的エネルギーを手にして国家と社会を作り出していった。
 人類の歴史を一貫して貫いているのは、「生産力の発展が生産関係を規定している」という科学法則である。生産力(物を作り出す力、能力、その生産量)が生産関係(生産に携わる人びとの相互関係、国家と社会のあり方)を決定していく、という法則のことである。この問題の思想上、理論上の核心は、一八五九年にマルクスが書いた論文『経済学批判・序言』の中の一節に正しく規定されている。それは次のとおりである。
 人類が出現した当初、生産力はなかった。生きるために必要な食・衣・住のすべては大自然からの採集、狩猟、漁労であった。そのため、大自然に立ち向かうため、人間はすべてにおいて共同・協力・連帯を必要とした。そのための社会生活、社会制度、人間関係が原始共同体であり、原始共産主義社会であった。そこには権力も国家もなかった。
 やがて人類は農耕を覚え、道具も発明し、生産活動が始まった。この生産力の発展が生産物の増大、蓄積、財産を生み出し、その財産は土地や山林まで私有化され、これを私物化させ、この私有をめぐる対立と抗争を生み出し、ここから権力と国家と階級社会が出現した。その最初の国家は貴族社会であり、奴隷制国家であった。古代ローマがその典型である。
 農耕のための道具の改良、土地の開発、集団労働は奴隷制ではなく、人間的労働としての農奴制を求め、ここから封建制社会が生まれた。生産力の発展は新しい社会としての封建制を生み出した。
 生産用具の改良と改革、技術の進歩、設備の拡大は工場制生産となり、製品の増大は商品経済を、そのための貨幣制度を生み出した。このことが封建制の崩壊と近代資本主義制度への転換を実現させたのである。
 人類の歴史を少しでも知っている人なら、マルクスのこの規定はまったく正しく、歴史はそのとおりに進んできたことが確認できるはずである。
 そしてその後の歴史は、マルクスの規定したとおり、まさに「生産力の発展が生産関係を規定した」のである。近代資本主義の発展と進歩をみればわかるとおりである。生産力は一貫して進歩し、発展、前進し、機械制大工場はいっそう近代化していった。近代資本主義はイギリスとヨーロッパからはじまった。そして十七世紀から十八世紀には全世界を支配した。
 十八世紀にイギリスから開始された産業革命(技術革命、機械の発明、世界貿易)は資本主義を一変させた。資本主義は最高の段階たる独占資本主義から帝国主義の段階に到達した。それは金融支配、金融寡頭時代であり、資本主義の最高の段階たる金融帝国主義である。
 「金融寡頭支配」とは、独占資本主義国家の中央銀行―民間銀行―金融機関という少数の集団が、その権力を動かして産業資本、商業資本、そして中小資本から農民や中小商工業者、人民大衆を支配し、収奪する全体系のことである。
 ヒト、モノ、カネが、いとも簡単に国境を越えていく。すべてが自由に移動していく。そのエネルギーがカネなのである。カネによってヒトも、モノも、そして国家と民族も、みなそのカネによって突き動かされる。まさに「マネー・マネージャー資本主義」(服部茂幸著『危機・不安定・資本主義』)である。
 帝国主義とは金融独占資本、プラス他民族の支配である。同時にそれは資本主義の最高で、最後の段階であり、労働者階級と人民の世界(コミュニティー共同体から社会主義)への扉(とびら)を開いた。人類社会はロシア革命を通じて最初の実験を体得した。多くの実績、経験と教訓を得た。歴史はここから多くのことを学び、限りなき宇宙の膨張と同じように、限りなき人類社会の発展と前進のためにこの実験は生かされるであろう。歴史はいくたの偶然を重ねながら必然の道をばく進する。これが歴史科学である。
 以上が理論と実践の両面から人類史、人類社会の発展の歴史的事実である。すべては哲学・歴史科学の示す法則にもとづいていることをわれわれは確信しなければならない。


(三)人類世界の歴史(前史)への必然的到達点は階級なき世界、コミュニティーから社会主義への道である。しかしそれはいくつかの偶然を通じて必然に至る。故にこの運動は途中で一度立ち止まり、原点に戻り、最初からやり直す必要がある、とマルクスは説く。現在の社会主義運動はその通りに進んでいる。ここにも哲学・歴史科学がある!

 現代世界の多数を支配しているブルジョア政界、ブルジョアジャーナリズムは社会主義は失敗した、共産主義は崩壊した、ソ連や中国はみな資本主義になった。資本主義こそ人類世界にとって最良のものだ、と叫んでいる。しかし現代世界を見よ。その資本主義は水野和夫氏など多くの知識人が説くように崩壊への道を進み、終焉を迎えているではないか。そして全宇宙を支配している、エネルギーの運動法則が生み出す哲学・歴史科学からみるとき、ブルジョア政治、ブルジョアジャーナリズムの説はまったくの逆論なのである。社会主義と共産主義の正当性はますます明らかになっている。
 われわれの見解を明確にする。ソビエト社会主義の崩壊、中国社会の変質というこの事実は、このことによって歴史がマルクス主義の正しさと社会主義の偉大さを改めて立証したのである。
 なぜそうなのか。それはつまり、ソビエト社会主義政権が崩壊したのは、フルシチョフによる「スターリン批判」という修正主義的ブルジョア思想によってソビエトの党と政権がブルジョア的に変質したからであった。中国の場合も、毛沢東を否定したケ小平によって中国社会主義と中国共産党がブルジョア的に変質し、その結果として党と国家がブルジョア化したからであった。つまり、ソビエトも、中国も、党と権力がブルジョア的に変質したから社会主義が崩壊したのである。すべては権力問題なのだ。このことがわからない、理解できない、知識がない、まったくの無能、無知、浅薄、そういう知的水準がそういう逆論を生み出しているのである。
 そしてなおわれわれが付け加えておかねばならないのは、フルシチョフやケ小平が出てきて歴史の進行を妨げるような出来事は、これまた歴史科学の法則であり、こういう偶然もまた必然性を進めるために必要なことなのである。歴史は常に、偶然を伴いながら必然への道を進む。そしてこのことについてマルクスは早くから予告していたことをわれわれは知らねばならない。
 マルクスは一八五二年に、哲学文献として有名な論文『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』のなかで、社会主義の運命について次のように論じている。
 『一八世紀の諸革命のようなブルジョア革命は、成功から成功へとあわただしく突進し、劇的効果をたがいにきそいあい、人も物もけんらんたる光彩に包まれて見え、有頂天が日々の精神である。しかし、それは短命で、すぐに絶頂に達してしまう。こうして、社会は長い二日酔いにとりつかれてしまい、そうしてからはじめて、しらふで、疾風怒濤の時期の成果を消化することができる。ところが、一九世紀の諸革命のようなプロレタリア革命は、絶えず自分自身を批判し、進みながらもたえずたちどまり、すでになしとげられたと思えたものにたちもどっては、もう一度新しくやりなおし、自分がはじめにやった試みの中途半端な点、弱い点、けちくさい点を、情け容赦もなく、徹底的に嘲笑する。この革命が敵を投げたおしても、その敵は大地から新しい力を吸いとって、まえよりも巨大な姿となって起きあがり、革命にはむかってくる結果としかならないようにみえる。この革命は、自分の立てた目的が茫漠(ぼうばく)として巨大なことに驚いて、たえずくりかえし尻込みするが、ついに、絶対にあともどりできない情勢がつくりだされ、諸関係自身がこう叫ぶようになる。
 ここがロドスだ、ここで跳べ!
 ここにバラがある、ここで踊れ!』
 ここで付け加えておきたいことがある。それはマルクスの一文の最後にある「ここがロドスだ、ここで跳べ!」「ここにバラがある、ここで踊れ!」というこの一文の意味は何か、ということである。この言葉そのものは、古代ギリシャの文人であったイソップが著したといわれる寓話集にあり、ヨーロッパでは広く読まれた物語である。ある一人の男が、温暖でバラの花が咲く風光明媚なエーゲ海の島、ロドス島で遊び、オリンピックの選手に負けないほど跳んだ、島の人はみな知っている、と自慢した。それを聞いたまわりの人が、私たちがここで証人になるから、ここをロドスと思って跳んでみよ、と迫った。「さあどうするのか、さあどうだ」というわけである。
 マルクスがプロレタリア革命(人民のための社会と世界実現)についてその運命を論じた一文の最後に、この短い一文を付け加えたことの中に、マルクスの歴史を信じ、人民の未来を信じ、革命を信ずる固い信念をわれわれは感じ取らねばならない。
 一人の男が「さあどうする、さあどうだ」と迫られ、決断しなければならない。マルクスは歴史が人民に決断を迫るときは必ずある。巨大な歴史の転換期と人民のあり方を、回りくどい論文ではなく、こういう物語を運用するのは、マルクスやエンゲルスがよく採用する芸術的表現である。こうしてマルクスは、変革の歴史時代が到来したとき、歴史が人びとに「さあどうする、さあどうだ」と問い掛ける。歴史の要求に答えて大衆は立ち上がる。先に立つのは前衛分子、先進分子、そのあとで一般大衆は結集する。歴史は到達すべきところに必ず到達する。そのために発生する偶然性に備えて、先進的・前衛的集団は自己を準備せよ。マルクスはこういう思いを込めてこの一文を書いている。われわれはマルクスに答えて、歴史科学に応ずべき力を作り上げねばならない。


 結論

 マルクスがプロレタリア革命(人民のための変革)の運命を論じたその一文の最後に「ここがロドスだ、ここで跳べ!」と結んだそのことのなかにマルクスの深い思いが隠されていることをわれわれはよく知らねばならない。それは歴史の確信と信念である。この確信と信念をわれわれのものとして、ここにもう一度再認識したい。それは次のような歴史観である。
 「全宇宙と万物は、エネルギーの運動法則にもとづいて、永遠の過去から永遠の未来に向かって休みなく運動し、前進し、発展し、転換し、止揚されていく。歴史は前へ前へと進むものであって、けっして後戻りするものではない。そして前へ進むためにこそ古いもの、現在を乗り越えねばならない。改革、変革、転換である。そのために歴史は人間に改革、変革、転換への思想・意識・自覚を求める。さあどうするか、である。そして人間は必然の哲学法則として「存在(歴史)が意識(思想認識)を決していく」。思想・意識が人間の行動を律していく。このような思想・意識の転換は、まず前衛的人間、知識人、先進的頭脳の人たちに実現され、そのあとに多数の大衆が結集していく。こうして思想・意識は大衆のものとなり、歴史は必然の世界に向かって転換し、前進する。宇宙と人類の歴史をみよ。歴史(事実)が必然の世界を証明しているではないか」ということである。
 偉大なマルクス主義万歳!


 結び

 われわれの未来展望とそのスローガン
 われわれはすべてを歴史科学的世界観に徹するよう呼びかける。われわれは一貫して次のような科学的世界観、歴史科学観を提起する。
 @人類とその社会は永遠の過去から永遠の未来に向かって運動し、発展し、爆発し、収れんされつつ前進していく。そのエネルギーは人間の生きる力であり、その物質的表現としての生産力である。
 A生産力の発展がその度合いに応じて生産関係としての人類社会(国家)を作り出していった。それは最初の原始共同体、次の奴隷制、封建制、資本主義制、そして社会主義へと一貫して生産力の発展が生産関係(国家)を変化させていった。これからもそうなる。
 B物理学が証明しているとおり、すべての生物は環境が作り出していく。人類もまた環境の産物であり、進化していった。環境が人間を変えていく。新しい環境と新しい社会は新しい型の人間を作り出していく。
 C人類の歴史を見ればわかるとおり、一つの支配権力、一つの国家形態が永遠であったことは一度もない。歴史は常に運動し、変化し、発展し、転換して次々と新しい時代を作り出していった。そして歴史を見ればわかるとおり、変化は静かで一直線ではない。爆発と収れんは歴史法則である。歴史は必然を持って前を目指すが、その過程では常に偶然が伴う。偶然は必然のための産物であり、偶然は必然のための糧である。そして必然の世界とは人民の人民による人民のための世界であり、より高度に発展したコミュニティー社会である。歴史は到達すべきところに必ず到達する。
 Dコミュニティーとは何か。人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ。
 E生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする。
 F金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む。
 G人類とその社会は生まれたときから環境の産物であり、歴史的なものであった。環境が変われば人類とその社会も変わる。国家と権力が変われば人類社会は変わる。
 Hそのための力こそ、すべてを人民のための・人民による・人民権力であり、その具体的表現たる人民評議会である。
 I人類が最初にはじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティー国家と社会へ。ここから本当の人間社会、人民の社会が生まれる。こうして人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するであろう。
(おわり)