2014年(平成26年)9月25日付 421号


人類史上の諸現象はすべてエネルギーの運動法則が生む物質の存在、人類世界においてはそのときの歴史時代が生み出す必然の産物であることを知らねばならない!

 最近、慶應大学教授・横手慎二氏の著作『スターリン(非道の独裁者の実像)』(中央公論社刊)が出版され話題になっている。八月三日付日本経済新聞の新書紹介欄では次のように記されている。
 「非道の独裁者とされるスターリンだが、ロシアで今なお敬愛する人々が多いのはなぜか。本書はこうした問題意識に基づき、ソ連崩壊後の新史料を駆使しつつ、独裁者の生涯を描き直した。大粛清をはじめとする悪行の一方で、急激な工業化や、第二次世界大戦の勝利を功績とみなすなど、歴史的な評価が定まっていないロシアの現実を浮き彫りにした」と。
 そして横手教授自身はその前書きで、この本を書いたその動機について次のように書いている。「本書は、スターリンに対するロシア国民の態度を手掛かりに、その人物像の再検討を図ったものである。あえて言えば、もう一度ロシア社会の中にスターリンを置き直し、彼が果たした役割を考えようとした」と。
 そして教授は現代のロシアにおけるスターリン像について次のように書いている。
 「今もなおロシアにおいて少なからぬ人々がスターリンを敬愛し、優れた指導者として信奉している。現在のロシアではスターリンの人格や役割についての評価が真っ二つに分かれており、ロシア史における彼の役割について肯定的に評価する声と、否定的に評価する声が拮抗(きっこう)している。
 二〇〇八年にロシア国営テレビが、ロシアを代表する人物について意見を求めたところ、スターリンは、古代の英雄アレクサンドル・ネフスキー、二〇世紀の巨大政治家ピョートル・ストルイピンに次ぐ第三位を占めた(実際には第一位の人気だったという説もある)」と。
 こうして横手教授はその著作全体を通じてスターリンの歴史的評価に関しては、その功績を評価することが主要な要素であり、いくつかの失敗や誤りは従属的なものとした。そして横手教授のその結論は二〇〇三年に、ロシア科学アカデミー付属歴史研究所が主催したシンポジウム「スターリンなき五〇年、スターリン主義の遺産と二〇世紀後半に対する彼の影響」における議論内容にもとづいていることに注目したい。
 このシンポジウムで指導的役割を果たした、主任研究員のセニャフスキーの発言は議論の大勢となった。彼は次のように主張した。スターリンの統治期の抑圧はいかなる形であれ正当化できるものではないとした上で、それだけでスターリンを評価すべきではないと強く主張するものであった。
 抑圧とテロについて言えばすべての真の革命は社会的テロを意味している。大量殺戮はフランス革命などヨーロッパ史においても見られた現象であって、ロシアのみに見られたものではなかった。ロシア革命では白軍のテロも赤軍のそれよりもひどいものであった。
 農業の集団化や都市の工業化は不可避であった。世界戦争が迫っていたのである。スターリンの政策はその歴史時代が求めていたのであって、このことによって戦争に勝ったのである。第二次世界大戦の勝利は彼の功績であったことに間違いはなかった。世界の偉大な指導者は誰一人としてこの点を否定していない。しかもスターリンは戦後も、非常に短期間で、荒廃していた経済を立て直した、と。
 以上のようにシンポジウム全体の流れはセニャフスキーの発言、つまりスターリン評価の力点は「歴史的勝利」にあったことは確かであった。
 こうして横手教授のこの本は、現代の歴史時代から見て、スターリンの偉大さを再確認するものとなった。
 さて「いまなぜスターリンなのか」、「いまごろなぜスターリンなのか」という素朴な質問に対してわれわれは明確に次のように答える。
 第一に、歴史がスターリンの偉大さを承認し、歴史がスターリンの復興を求めている、ということである。ロシア国民にスターリンを敬愛する心情がなお強い、ということは歴史がそうさせているのである。大衆の動きの中に歴史時代があることを知らねばならない。
 第二に、現代の歴史時代がこの本を出版させたのである。アメリカの一極支配は終わり、世界は無重力となり、こうして資本主義の崩壊から次の時代たるコミュニティー共同体から社会主義をめざす時代へ。このとき、社会主義を傷つけるものこそスターリン問題であり、歴史はこれを正すよう求めている。こういう歴史時代がこの本を出版させたのである。
 第三に、こういう歴史の要求に答えて行動を起こすし、歴史を正すものこそ前衛的集団、先進的知識人、そして大衆の力である。この本を執筆したのは歴史の要求に答えた先進的知識人の代表たる一人の学者であった。今後こうした先進的人びとが必ず出てくる。ここに歴史科学の必然性がある。
 第四に、ここで確認しなければならないのは、この本がわれわれに一定の課題を提起したことである。それはスターリンを否定する数々の「罪状」をどう見るか、ということである。これは現象的でなく哲学的・演繹法に因らない限り解明できない。われわれはこの文書のなかで、この問題を全面的に解明することにする。


▼人類世界、人間社会、民族と国家の発展と前進における根本的法則は「存在が意識を決定し、意識が存在を支配する」という哲学原理である。この哲学原理がすべてに貫かれていることを知らねばならない!

 マルクスは人類世界を支配するこの哲学原理を『経済学批判・序論』(一八五九年)においてくわしく論じている。その全文は本紙・五月二十五日付(四一七号)に掲載されている。その核心はつぎの諸点にある。
 人類がこの地球上に出現して以来、生きるためには食わねばならず、そのために当初は全自然から集団で獲得した。やがて道具や機械を発明、発見して生産活動を覚え、それは一貫して発達し、発展し、前進していった。ここに人間の生きるためのエネルギーが生み出す物質的な存在がある。すべての土台がここにある。
 エネルギーの運動法則は無限であり、永遠であり、発展と前進は必然である。この物質運動が人間の頭脳に反映して、そこに一定の思想・意識・理念・理論を生み出していく。 そして同時に、この思想・意識・理念・理論が人間をとらえ、人間を行動に駆り立てていく。こうして人間の行動力、意欲が物質的な力となって人類世界と社会の発展と前進のための推進力(エネルギー)となる。故に大宇宙とその運動と同じように、人類世界の運動と発展と前進も永遠に無限である。
 そしてマルクスはその結びとして、生産力の発展、物質の生産性向上が、生産関係(国家と社会、その制度)の変更(変化)を促していく、とした。歴史をみればその通りである。歴史は前へ前へと進むものであり、一つのものが永遠であるはずはなく、一つの政治社会制度が常に永遠であったことはなかった。
 以上のように「存在が意識を決定し、意識が存在を支配する」という哲学原理を明確にしたのである。この哲学原理が実際の政治と社会、歴史上に目に見える形で実現された実例をエンゲルスはナポレオンを通じて証言している。それはつぎの通りである。
 史的唯物論と歴史科学に関する哲学思想問題が大いに議論になっていたとき、エンゲルスは友人のハインツ・シュタルゲンブルグへ書いた手紙(一八九四年一月二十五日付)のなかでつぎのように論じている。短いこの言葉の中にこの問題の核心がある。それはつぎのとおりである。
 「人間は自分で自分の歴史を作るが、今日に至るまで、総体的計画に従って、総体的自己の意志をもってそれは作られてはいない。あるはっきり限定された、あたえられた社会においてさえそうである。彼らの進む道は交錯している。そしてまさにそれゆえに、すべてこのような社会においては必然性が支配する。この必然性の補足であり、現象形態であるのが偶然性である。ここですべての偶然性を貫いて自己を貫徹する必然性は、これまた究極においては経済的必然性である。
 つぎにここでいわゆる英雄が問題となる。歴史上のある英雄が、そして偉大な英雄が、ある特定の歴史時代に、その特定の国に出現したということは、もちろん純粋に偶然的産物である。しかし、その英雄個人を抹殺してしまえば、これを補充すべきものに対する需要があらわれる。歴史の要求である限りこの補充は実現される。よかれあしかれ結局は補充される。ナポレオン、ほかならぬこのコルシカ人が自国の、戦争で疲弊したフランス共和国の必要とした英雄が軍事独裁官であったということは偶然であった。しかしもしナポレオンという人物がいなかったとしたら、別のナポレオン的な人物が出現してその役割を果したであろうことはまちがいない。こういう人物が必要であるというのが歴史の要求であるかぎり、いつでも、いつかは、どこかで、必ず出現するであろうことは多くの歴史が証明しているところである」と。
 マルクスの哲学原理とエンゲルスが示した歴史的実例をスターリンに当てはめて考える。
 まず当時のソビエトロシアの歴史時代(存在)とは何か。先進的ヨーロッパ(英、仏、独)に比べてソビエトロシアは非常に遅れた農業国であった。近代化学と重工業はなく、農業生産力は低く、軍事力も近代兵器は乏しかった。ところがドイツにナチス政権が生まれ、新しい帝国主義戦争が近づいた。歴史はソビエトロシアに、急速に、早く、都市の工業化と重化学工業の発展を、農村には集団化による農業生産の高度化を、そして労農赤軍の近代化を求めていった。それは人類初の社会主義を実現させたこの国を、全世界の労働者・農民・人民のための共和国として守り抜かねばならない、という歴史的使命が歴史の要求としてソビエトに迫っていたのである。
 こうした歴史時代、歴史の要求、これがスターリンを求めたのである。スターリンとは、一八七九年、グルジアの貧しい靴職人の子として生まれた。父親は酒におぼれたが、愛情豊かで理知的な母親の手で、ロシア正教会付属の神学校に入学、史料によれば常に成績はトップで、周りの子たちよりも利発で、リーダー役で、常に向上心を持っていた、という。ロシアに革命運動が高まり、スターリンはレーニンとボリシェビキ党に近づき、入党、革命家になったが逮捕、投獄、脱獄を繰り返した。
 こうしたスターリンの活動歴、その資質、その力量が当時の歴史時代(存在)と結びついて、スターリンを歴史の舞台に登場させたのである(一九二二年四月、レーニンの推薦によって党の書記長となる)。
 一九四一年六月二十二日、ドイツのナチス軍三百万が突如ソ連に襲い掛かり、独・ソ戦が開始された。その日のうちに六人(ソビエト政府、ソビエト評議会、ソビエト陸・海軍、ソビエト共産党、ソビエト共産主義青年同盟)の幹部がスターリンと会見、スターリンに全権を委任した国防委員会を設置、一致団結して国家の防衛に当たるよう要請、スターリンも承認、六月二十九日「国家防衛委員会」を設置、スターリンを議長にして戦時体制を発足させた。こうしてスターリンの強力な指導(独裁)のもと農業の集団化、都市の重化学工業化、ソビエト赤軍の粛清と近代化(くわしくは次節)という、三大改革に全力をあげて取り組むのである。そしてこれは成功、ついにナチス・ヒトラーに勝ったのである。ここに歴史の証明がある。
 このことを証明した記録はイギリスの軍事科学者リデル・ハート(一八九五―一九七〇)の著作『第二次世界大戦』にくわしく書かれている。(その概略は本紙六月二十五日付・四一八号に掲載されている)。その核心はつぎの点にある。
 「ソ連軍の戦車はどこに出してもひけをとらないばかりか、多くのドイツ軍の将校にいわせれば、最高のものであった。……戦車自体の性能、耐久性、備砲では最高度な水準に達していた。ソ連軍砲兵は質的に優秀であり、またロケット砲の大規模な開発が行われ、これがきわめて有効であった。ソ連軍のライフル銃はドイツ軍のものより近代的で、発射速度も大きく、また歩兵用重火器の多くも同様に優秀だった」と。
 またソビエト人民とソビエト赤軍兵士の戦闘能力についてもつぎのように書いている。「ソ連の一般国民は鋼鉄(スターリン)の名をもった彼らの指導者よりもずっと剛毅だった。彼らは長蛇の列をつくって前線行きを志願した」。「ソ連軍の改革は上層部から始まった。当初からの高級指揮官を思い切って整理し、そのあとがまに大部分が四十歳以下の、若い世代の活動的な将軍を登用した。彼らは前任者よりもいっそう専門家であった。かくしてソ連軍統帥部は平均年齢でドイツ軍のそれよりも二十歳近くも若返り、活動性と能力の向上をもたらした」と。
 「またソ連兵は、他国の兵なら餓死するときにも生きつづけた。ソ連軍は西欧の軍隊なら餓死するはずの環境にも生存でき、他の国の軍隊なら破壊された補給が再開されるまで停止して待つはずの場合にも、彼らは前進を続行することができた。このときの印象を、ドイツ軍のマントイフェル将軍(独ソ戦開始時、第七装甲師団長)はつぎのように要約している。ソ連陸軍の進撃ぶりは西欧軍の想像を超えたものがあった。兵士はザックをひとつ背負い、その中に前進の途中、畑や村々から集めた乾いたパンの外皮や生野菜を詰め込んでいた。馬匹は家々の屋根わらを食べさせていた。ソ連軍は前進にあたって、このような原始的な訓練によっても長期の戦闘に慣れていたのである」と。
 右のような歴史的事実、歴史的証明がソビエト国民のスターリンに対する敬愛の念を植えつけていったのである。その姿を目にした記録をここに紹介したい。
 元毎日新聞のモスクワ特派員として第二次世界大戦中にモスクワにあって見たスターリン像について次のように書いている(渡辺三樹男著『ソ連特派五年』―一九四七年、上海書房刊―)
 スターリンをはじめてみる。一九四三年(昭和十八年)はソ連の輝かしき「戦勝の攻勢」の年として暮れた。そうして戦争四年目の一九四四年がやってきた。
 モスクワでは戦時中最初の最高会議が二月下旬からクレムリンの議場で開かれることになった。
 外国使臣(大公使のみ)と外国新聞記者団には全会期を通じて招待状が発せられ、私もその一人として、初めて音にきこえたクレムリンの内部へはいる機会をえた。そしてそれは同時に、私のスターリンをはじめてみる、またとえがたいチャンス(機会)でもあった。
 定刻五時少し前、幹部席に人の影があらわれた。ただちにおこる満場の拍手!スターリンがしずかに幹部席の中央に歩んでくるではないか!
 元帥服のスターリン。ソ独戦争がはじまり、ソ連軍最高司令官の位につき、元帥となったスターリンは、今度は元帥服一点ばりとなった。「八回の投獄と七回の流刑と六回の脱獄」をしたというスターリンは、もともとすこぶる質素な人であり、衣服もズッと「党服」一つで通してきたものだが、ソ独戦争となり、赤軍内に階級制と厳重な軍紀が要請されるに至り、最高軍司令官たるスターリンみずから範を示す意味でも元帥服を着用するようになったのは、しごく当然と言わねばならぬ。しかも、ひとたび元帥服をまとうや、あくまで「スターリン式」にこの服一点ばりで押し通し、現に今日に及んでいる。
 さて、最高会議幹部席の真ん中より少し右側の方に陣取ったスターリンである。まず私の第一印象は、想像していたより顔色が青白いということであった。
 当時六十五歳、すでに頭髪と口髭にはだいぶ白いものが混じっていた。しかし、想像にかたくない激務の割には、まだ老い込んだというようなところは、ミジンもみえなかった。
 一たん腰を下ろし、すぐまた立ち上がって会衆の拍手にこたえ、自らも少し拍手したが、その様子はさすがに貫禄あり、堂々たるものであった。
 全議員はもとより、傍聴人、内外新聞記者も総立ちで拍手を送っている。議員の中から「同志スターリン万歳!」と叫ぶ声もある。拍手はしばし鳴りやまぬ。スターリンは、とみると、終始にこやかな顔でおうように万雷の拍手にこたえていたが、やがて「もう沢山」といわぬばかりに腰を下ろしてしまった。すると、拍手はさらに一段と猛烈さを加える。スターリンはまた立ち上がる。だが、今度は議長のシュヴェルニク(当時。現在はカリーニンのあとをついで最高会議幹部会議長である)の方に手を上げて合図した。トタンにベルの音――「全員着席」のベルである。
 以上のような記事は客観的事実であり、歴史上の事実である。このような客観的で、歴史的な事実の中に問題の本質がある。つまり、ここに証明されている本質とは、スターリンとソビエト国民の相互信頼であり、大祖国防衛戦争を勝ち抜いたスターリンの指導力への信頼であり、「存在が意識を決定し、意識が存在を支配する」という哲学原理の証明である。

▼スターリンの「血の粛清」とは何か。それは独ソ戦の前哨戦であった。トウハチェフスキーと歴史時代から哲学・演繹法的にみつめよ!

 スターリンの批判者たちはその残虐な独裁の実例として赤軍と党内の反対派に対する血の粛清事件をよくとりあげる。これもまた歴史を矮小して、哲学的演繹法でなく、観念論的にみるブルジョア評論の見本である。
 ミハイル・ニコライエヴィッチ・トウハチェフスキーは、ロシア帝政時代、地主貴族の子として生まれ、長じて帝政陸軍の総司令官となり、第一次世界大戦を指揮、一九一五年にドイツ軍の捕虜となり、ロシア革命の直前に脱走、革命後の一九一八年に赤軍に参加、ソビエト軍事人民委員(国防相)となった。そのとき、ボリシェビキ党内から、旧帝政時代の高級将校をこういう地位に就任させることに反対する意見が出た。しかしレーニンは、生まれたばかりの労農赤軍には、高度な軍事知識と軍事科学を学んだ人材はなかったので、この人物を通じて多くのものを学び取り、少しでも早く赤軍幹部を育成することが重要だとした。トウハチェフスキーはトロッキーと組み、赤軍幹部の育成に努め、やがて赤軍参謀総長、赤軍士官学校長となる。
 一九三六年、イギリスの国王ジョージ五世の大葬にソビエト軍事代表団長としてロンドンに渡り、帰途ドイツを訪問、ヒトラーと会談、そしてフランスにも行った。パリでの公式会見の席上での発言は、同席していたルーマニア大使館員エー・シャハナン・エセゼ、フランスの政治記者ジュヌヴィエーヴ・タブイ女史などによって後日報じられた(女史の著作『人は私を女予言者と呼ぶ』にもくわしく紹介されている)。トウハチェフスキーはそのとき「ヒトラーは強力なリーダーだ。ヨーロッパはドイツ抜きには語れない」と言った。
 やがてヨーロッパに戦雲漂う一九三〇年代、ヨーロッパにはあらゆる国のスパイが入り乱れて活動していたころ、ソビエトの諜報機関、そしてアメリカの諜報機関もあらゆる情報をつかんでいた。
 第二次世界大戦中に、アメリカ軍の戦略諜報機関「OSS」の幹部としてヨーロッパ戦線で活動し、戦後はアメリカの「CIA」監察官になったジョン・H・ウォラーが書いた『見えない戦争』(日本語版は『ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争』として、二〇〇五年一月に、鳥影社が出版)では「スターリンの大粛清事件」の背景が明らかにされている。第二次世界大戦前夜のヨーロッパは各国の諜報・スパイ活動が入り乱れていた。その中で「OSS」はソビエト赤軍内の反乱計画もつかんだ。それは、ソビエト赤軍の最高幹部で、参謀総長のトウハチェフスキー元帥がナチス・ヒトラーと手を結び、ドイツがソ連に進攻したときにあわせて、ソビエト内で反革命軍の蜂起を謀る、というものであった。だがこのことはやがてソビエト諜報機関も二重スパイを通じて掌握するに至った。そして独ソ開戦前(一九三七年六月)にスターリンとソビエト政府は、軍と政府と党の内部に組織されていた、トウハチェフスキーに連なる、旧帝政時代の生き残り組を中心にした反革命組織を一連の芋づる式摘発によって一網打尽にした。このことをブルジョアジーたちは「スターリンの大粛清事件」という。しかしこの問題の本質は、「OSS」のウォラー氏の記録にもあるとおり、これはまったく明らかなように、まさに独・ソ戦の前哨戦だったのである。スターリンはこの前哨戦に勝利したから、一九四一年六月二十二日にナチス・ドイツのソ連進攻にはじまる独・ソ戦の本戦に、ソビエト政権は党・政府・赤軍の三位一体によって勝利したのである。スターリンの粛清とは、ナチス外国軍と結んだ国内の反革命軍に対する戦いであって、帝国主義による侵略的弾圧とは質が異なる。この階級的性格がわかるか、わからないか、これは革命か反革命かの分水嶺である。歴史が証明するとおりスターリンは偉大であった。
 さて、ここで歴史は一転、第二次世界大戦の最中のイギリスでの一つの小さな出来事をみすごしてはならない。一九三九年九月一日にドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が開始され、やがて一九四一年六月二十二日には独軍三百万がソ連に侵攻、独ソ戦が開始されるその前日の六月二十一日、イギリスの首相チャーチルは何を思ったか、二人の重要な人物と昼食を共にして戦局の見通しについて語りあった。一人はイギリス新聞界の大御所たるマックス・ビーヴァブルック卿、もう一人は英国貴族出身の将軍で、軍人の世界では人望のあるルイス・マウントバッテン伯であった。この三人の会話のもようは、第二次大戦に関する歴史記録作家で、数々のベストセラーを出したフランスのドニク・ラビエールとアメリカのラリー・コリンズの共著『今夜自由を』のなかで紹介されているが、そのとき、ビーヴァブルックが、明日ヒトラーがソ連侵攻を開始するという情報をチャーチルに知らせると、チャーチルはすでにこのことは知っていた。ビーヴァブルックは、これによってスターリンとソビエトは一カ月で崩壊するだろうというと、チャーチルは三カ月はかかるだろうという。そのときマウントバッテンは二人の説に反対してこういった。「私はロシアが負けるとは思われないのです。それとは逆にヒトラーの方が最後の段階に至り、独ソ戦は第二次大戦の転換点になるでしょう」と。ここでチャーチルは、なぜだ、と聞く。マウントバッテンは答える。
 「まず第一に、スターリンの国軍粛清によって、ナチスが利用できるような内部的対立の芽がすべて摘み取られてしまっているからです。第二に、ロシアに長く君臨した王朝の末端に連なるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後はロシアは全国民が闘うでしょう」と。チャーチルはこれを聞くと、少なくとも納得したようにはみえなかったが「さてどうなるか、そのうちにわかるだろう」といって、この話は打ち切りになった。しかし歴史はまさにマウントバッテンのいうとおりになったのである。マウントバッテンはなぜこのように本質的なことを、しかもソ連赤軍内部のもようをしっかりと知っていたのか。彼は海軍軍人から出発したが、大戦中は東南アジア連合軍総司令官、ビルマ戦線指揮官、インド総督、イギリス軍総参謀長などを歴任した知将で、直系の祖先はカール大帝であり、彼の父はドイツ皇族の出であり、ヴィクトリア女王のひ孫にあたり、血縁によって、ドイツのカイザー・ウィルヘルム二世、ロシアのツァー・ニコライ二世は伯父であった。そのため以前から両国と交流があり、それぞれの国の内部にはいくつかのチャンネルがあった。そのためにあらゆる情報を知っていたので、チャーチルや、ビーヴァブルックに対して確信ある発言ができたのである。
 さて、さきに明らかになったトウハチェフスキーの一件と、マウントバッテンの発言と、この二つを貫く一本の糸は何であろうか。もうすでに明らかなように、マウントバッテンは独自のルートを通じてすべてを知っていたのである。ナチスはソビエト軍の内部に多くの手先を送り込んでいた。そして戦争を仕掛けたとき、この手先による反乱によって、一挙にスターリンとソビエトを葬り去ろうと計画していた。しかしソビエト共産党とスターリンはこれを見破った。それが赤軍内部の粛清であった。そしてスターリンは勝った。スターリンとソビエト共産党の革命的警戒心と果敢な処置がよくソビエト社会主義共和国を守った。もし、スターリンの粛清がなかったなら、第二次世界大戦と祖国防衛戦争に勝利はなかったであろう。ソビエト共産党とスターリンは偉大であった。


最後に一言!

 スターリンの生涯は革命と戦争の一生であった。戦争の歴史がスターリンの全行動に反映されている。「存在が意識を決定し、意識が存在を支配する」という哲学原理がその全行動に貫かれている。その理論的(思想的)根拠はクラウゼウィッツの『戦争論』にある(その核心部分は本紙八月二十五日付四二〇号に掲載されている)。この哲学的・科学的文書は、ヘーゲルも、マルクスも、エンゲルスも、そしてレーニンも高く評価し、世界的にもベストセラーとなった。とくにその第三節の一文は核心のなかの核心であり、戦争を語るとき絶対に忘れてはならない部分である。それはつぎの通りである。
 「戦争というものは、その客観的な性質上、蓋(がい)然性の計算に帰着する。だから偶然性の要素がつきまとう。じっさい、いろいろな人間の活動のうち、戦争ほど不断に、かつ、あらゆる面で、偶然と接触するものはない。
 戦争は実に危険な事業であって、このような危険な事業にあっては、お人よしから生まれる誤謬(ごびゅう)ほど恐るべきものはない。
 物理的暴力の行使にあたり、そこに理性が参加することは当然であるが、そのさい、一方はまったく無慈悲に、流血にもたじろぐことなく、この暴力を用いるとし、他方にはこのような断固さと勇気に欠けているとすれば、かならず前者が後者を圧倒するであろう。
 戦争哲学のなかに博愛主義をもちこもうなどとするのは、まったくばかげたことである。
 戦争は暴力行為であり、その行使にはいかなる限界もない。かくして一方の暴力は他方の暴力をよびおこし、そこから生ずる相互作用は、理論上その極限に達するまでやむことはない。
 戦争は生きた力が死物に働きかける作用ではない。それは、常に生きた力と生きた力との間の衝突である。というのは、戦う二者の一方が全然受身の地位にあるとすれば、それは戦争とはいえないからである。したがって当事者にとって最悪の状態は、抵抗力の完全なそう失である。
 精神的要素は戦争全体を貫いている。物理力と精神力は相互に融合しており、物理力は木で作った槍(やり)の柄であり、精神力は金属で作った槍の穂先である。」
 ここでクラウゼウィッツは何を語っているのか。これを思想的に理解できないなら、戦争を語る資格はない。クラウゼウィッツはつぎのことを強調しているのである。
 戦争は誠に危険で、非情で、無情で、残酷な世界である。故にそこでは人間道徳や、宗教心や、理性や、博愛主義などは一切通用しない。スターリンはこのことをよく認識し、その理論と法則通りに行動し、戦い、そして勝利した。スターリンは戦争の原因、戦争を引き起こした敵に対して非情であったのであり、人民には限りない愛情を捧げた。ここに本当の強さがある。
戦争における勝利者は戦争の本質をよく知り、決断と勇気を持ったもののみである。そしてクラウゼウィッツは言っている。戦争における物質的要因は槍(やり)の柄(え)であり、精神力は金属で作った槍の穂先なのである。思想が物質的な力になる、という哲学原理がここにもある。
 戦争を語るとき、敗北主義者や人道主義者たちは必ずその非情さや残酷さを非難する。これは敗北者たちの泣き言である。問題の根本は戦争そのものであり、戦争そのものが非情で残酷なのだ。だから本当に強い者、真の勝利者は戦争を引き起こす原因(そのことは本紙八月二十五日付、第四二〇号に掲載されている)を取り除くために戦うのである。
 そういう正義の戦争における非情さや残酷さは、人類の敵に対する非情さであり、戦争を引き起こす原因に対する残酷さなのである。故に、正義の戦いを進めた人々は歴史の英雄であり、人民を守る護衛官なのである。スターリンはそうであった。
 レーニンは一九〇七年四月に書いた『マルクスからゾルゲへの手紙・ロシア語版序文』の中で、あるいは一九一七年七月に書いた『立憲的幻想について』の中で、つぎのように説いている。
 運動や闘争、戦争の過程では、一時的、局部的、部分的には、失敗や、敗北や、行き過ぎは避けられない。戦い、行動し、前進している運動が生み出すこのことは、前進的で発展的なものである。何もしないものからみればはるかに尊い財産である。正しい目的に向かって闘う限りこの否定面は必ず肯定面に転化する、と。
 歴史上の大事件、大人物、英雄を正しく知るためには、哲学(万物を支配する普遍的真理)とその演繹法に因って判断しよう!


結語

 人類の歴史は、哲学・科学的真理たるマルクス主義が示す法則にしたがって進む以外にない。そして二十一世紀の歴史時代はこのことをはっきりと今証明している。そのためにこそ歴史は絶対的真理としてのマルクス主義の純化、浄化、原点からの再出発を求めている。歴史はあくまで必然性を持って、到達すべきところに必ず到達するであろう!