2015年(平成27年)5月25日付 429号


史上最低の投票率、自民党自身の得票減、「アベノミクス」への不信感の増大、というこの事実のどこに自民党の勝利があるのか。歴史はこうした事実を通じて評議会を求めて前進する!

4月統一地方選挙の前半は4月12日、後半は4月26日に実施された。まず前半の結果と評価については各主要新聞がつぎのように報道した。「知事選全勝の自民党に弾み、政権運営に自信、民主反転攻勢ならず」(4月13日付読売新聞)。「自民敵失の勝利」(4月14日付日本経済新聞)。「低投票率、自民に利」(4月14日付朝日新聞)、というように各新聞は共通して自民党の勝利は偶然であったと論じた。そして4月13日付日本経済新聞は「知事選での勝利はすべて現職であった」、「自民党の得票は75万票減少」と報じた。
 そして後半は4月26日に実施、その結果について主要紙はつぎのように論じた。4月27日付朝日新聞は「投票率各地で最低更新、市長選平均50・53%」「知らない候補・似た主張…投票棄権」の大見出しのもとで「投票率が最低を更新した選挙が多く、市長選、市議選、町村長選いずれも過去最低。無投票で当選した人の割合も高く、選挙の空洞化を示す記録ずくめの統一選だった」と論じた。
 こうした状況について読売新聞は4月27日付社説でつぎのように論じた。「統一地方選挙の後半戦が終了、残念だったのは、前半戦に続き、後半戦でも無投票当選が目立ったことだ。…無投票の増加は、地方の民主主義の危機にほかならない」と。
 4月27日付産経新聞は特集の中の大見出しで「自民・都市部で脆弱さ」、「民主・党勢回復ほど遠く」という記事の中で「後半戦も候補者不足による無投票当選の多さと低投票率ばかりが目立ち、論戦が盛り上がる選挙は少なかった」と論じている。
 「アベノミクス」については決して国民大衆からの支持は得ておらず、今度の選挙を通じてむしろ不信感が広まっていることが明らかになった。4月21日付『週刊・エコノミスト』はつぎのように論じている。「アベノミクスが始まってからすでに2年が過ぎている。最初のうちは株価が上昇するなど、アベノミクスに対する期待は高かった。しかし、各種の世論調査を見ても、今では失望が国民の間で広がっていることがうかがえる。もっとも、政府やアベノミクスを支持する経済学者たちは、アベノミクスによって消費は順調に回復していたが、2014年4月の消費増税の結果、消費は落ち込んだと論じている」と。
 そして統一選挙全体を通じて読売新聞は4月28日付で「統一選自民堅調。政権運営に自信、民主退潮止まらず」と結んだ。
 以上のとおりである。このような客観的事実の中に問題の本質がある。
 つまり、投票による選挙というものが、本質的にはまったく機能していない、ということである。ここにブルジョア独裁の本質があり、ここにブルジョア政治の本質があるということである。これが選挙という茶番劇であり、これが衆愚政治の見本である。
 歴史はやがて大衆を自覚させ、認識させ、先進的人びとを決起させ、前衛的集団の領導のもと、真の民主主義たる評議会をめざして前進するであろう。歴史科学の運動法則の必然性がここにある。哲学歴史科学の必然性がここにある。


投票による選挙とは、ブルジョア権力の本質を覆い隠す衝立(ついたて)である。その実例で有名なフランスにおけるドゴール独裁権力出現という実例から学べ!

 マルクスはかつて「階級闘争の戦略・戦術に関して共産主義者はフランスから深く学ばなければならない。この面に関してフランスは宝庫である」と語った。そしてここに記録した一九五八年の事件もそうである。
 フランスにおける第二次大戦後の国民議会で特徴的なことは、常にフランス共産党が第一党であった、ということである。なぜ共産党は常に第一党だったのか。それは歴史が生み出したものである。
 第二次世界大戦中のフランスといえば、ナチス・ヒトラーの占領下におけるあの有名な「レジスタンス(抵抗)運動」を知らぬものはいない。数々の物語に、映画に、演劇に、小説に、詩に、その英雄的で、愛国的で、悲劇的な闘いと運動は、全世界に感動をよびおこした。ルイ・アラゴンの『フランスの起床ラッパ』は世界の若者たちに、祖国と民族のために死すことの美しさを教えた。そして「レジスタンス」といえばそれはフランスの労働者階級であり、それはフランス共産党であった。
 このレジスタンス運動の最も困難な部署を受け持ったもの、それはフランス共産主義者であった。だから最も犠牲の多かったのが共産党であり、この党は当時「銃殺される者の党」とよばれていた。レジスタンスの犠牲者三万、ドイツの収容所へ送られた者十五万、帰国できた者はわずか四万にすぎなかった。ゆえにフランス解放の最大の英雄、レジスタンスの英雄、フランス共産党が第一党になったのは当然ではあるまいか。
 そして第四共和制下の政府はみな弱体で、内閣が二十六回もかわるという状況であった。そのとき、もっとも革命的であるはずの共産党までが、議会主義に陥り、あるときは中道政党に引きづられたり、あるときは中道政党の連合のまえにボイコットされたりして、議会主義に陥ったにもかかわらず、議会の中ではいつも孤立していた。
 フランス国内で弱体内閣が右往左往しているとき、国外ではフランス植民地での民族闘争が高まり、つぎつぎとフランスは植民地を失っていた。そしていよいよ、フランスにとっては最後の植民地であるアルジェリア独立戦争が最後の段階に到達しつつあった。フランスの独占資本とブルジョアジーはアルジェリア植民地の支配権の保持、そのための本国における強力な政府の樹立を求めてドゴールの出場を早くから画策していた。だが、いくら選挙をやっても、議席の拡大にもとづく議会を通じたドゴール内閣の出現は不可能であった(ドゴール派はわずかの一六議席である)。独占資本にとっても議会はもはや無用のものとなった。
 ドゴールの独裁政権樹立のための実力行動、反革命的暴力、軍部と右派政治勢力の力によるクーデターは、いまやフランスにおける矛盾の集中地点たるアルジェリアではじまった。
 【一九五八年五月十三日】アルジェリアの首都、アルジェでは大規模なデモが発生、その中の急進的な右翼デモ隊の千人は、「アルジェリアはフランスのものだ」、「無能な中道政権ではなく、ドゴールに政権を」と叫びつつ、アルジェ政庁に乱入、略奪行為をほしいままにするとともに、ここを占領、アルジェ放送局も占領した。デモ隊はそのあと「アルジェ公共治安委員会」の樹立を宣言。これはアルジェリアにおける唯一の政府であると内外に声明した。
 フリムラン首相は十四日、アルジェリア駐留フランス軍の総司令官・サラン将軍にアルジェの治安維持に関する全権を委任した。
 【五月十五日】一方本国ではドゴール将軍がようやく腰を上げ、この日はじめて記者会見し「国家が私を必要とするならばいつでも出馬する」という声明を発表した。
 【五月二十八日】この日の未明、第四共和制にとって実質上の最後の国民議会が開かれた。議会はフリムラン内閣が提出した憲法改定討議に関する決議案を賛成四〇八、反対一六五、の圧倒的多数で可決した。これはフリムラン内閣を信任してこの政府をあくまでおしたて、ドゴール内閣の出現を阻止しようとする議会の空気を反映したものであった。フリムラン首相はこの決議案が否決されれば総辞職する、と言明していたがゆえに、議会はフリムラン内閣信任、ドゴール反対、を表明したのである。ところがフリムラン内閣は、この決議案を支持した票の中には共産党の一四五票がある。しかし共産党は本当の支持票ではなく、自分はこれを認めない。したがってこれを差し引くと、この決議案は可決にはならない(可決の必要票は三分の二であった)。このように主張してさっさと内閣総辞職をしてしまった。フランスの第四共和制には、その憲法のどこをみても、共産党の一票を他の一票と区別するような項目は一つもない。にもかかわらずフリムランは憲法を無視し、議会主義を無視して第四共和制を破壊し、ドゴールへの道を清めていったのである。コティ大統領はこのなりゆきをみつめつつ、フリムランの辞職が決定的となったとたん、直ちに大統領官邸当局のコミュニケとして「大統領は二十八日夜までには新内閣の首班たるべき人の訪問を求めたいと希望した」と発表した。待っていました、というばかりである。
 【五月二十九日】コティ・フランス大統領は午後三時、国民議会に対して次のような特別メッセージをおくった。「私はドゴール将軍にこちらに来て政権について私と協議するよう要請する。いまやわれわれは内乱の一歩手前にきている。双方の陣営がいま兄弟互いに殺し合うような闘いの準備をしているようにみえる。これを救うのはドゴール将軍だけである。もしドゴール将軍のもとで政府をつくることができなかった場合には私は辞職する」。夜になってドゴール将軍はコティ大統領と会見、大統領の組閣要請についてドゴールは「私の政府は現在の重大な事態に対処するに必要な全権限を一定期間与えられるべきであること。また私の新政府は憲法改定、その他必要な法律の改定についても議会ではなく、直接国民投票に問う権限をあたえられるべきである」と答え、コティ大統領は無条件にこれを承認した。
 【六月一日】こうして、午後七時半、議会は、議会外の重圧のなかで開会、ドゴールを、賛成三二九票、反対二二四票、という票決のもと、首相とみとめた。
 一九五八年十月五日、第五共和制が発足、ドゴール時代へと進む。この時代はまさに「近代的帝政」の時代であり「ドゴール君主制」の時代であった。選挙法も改定された。十一月のドゴール支配下の総選挙では中道左派のマンデスフランス、ミッテランも落選、第四共和制下ではいつも第一党、第二党を保持していた共産党もわずか一〇議席に転落、以後フランス共産党は再び第一党にはなれない。ブルジョア独裁の実力による勝利であった。
 なお念のために付け加えておきたいことは、フランスの出来事は何もフランス独特のものではなく、同じことは、形を変えて、一九七六年のイタリアでもおこった。イタリアではこの年の総選挙でイタリア共産党が第一党になったが、いつも様々な妨害で政権は取れなかった。
 そしてネパールである。ネパール共産党(毛沢東主義派)は一九九六年から強力な武力闘争を展開、農村地帯の七〇%を支配下に収めたといわれた。にもかかわらず、王制打倒で協定を結んだ、ネパール国民会議派や、ネパール統一共産党などと妥協して選挙による改革に移行、二〇〇八年四月の総選挙で第一党になった。だが、ここでもやはり、いろいろな妨害が加えられ、毛沢東主義派の指導権は実現されず、党も分裂し、ついに権力から外されてしまった。権力の根本的変革とは、改良ではなく革命でなければならず、革命的変革は投票ではなく、大衆の力、大衆の闘い、そして人民闘争による人民戦線、自らの権力としての評議会によるものでなければならない。ここに歴史科学がある。歴史科学の法則としての変革のあり方を真の指導者はよく知らねばならない。


投票とは無自覚なる大衆をごまかす愚民政策である。自覚した大衆は偉大であり、無自覚なる大衆は烏合の衆である。そしてブルジョア権力は愚民政策で大衆を支配する。その実例はナチス・ヒトラーと田中角栄が立証している。大衆の二面性を知れ。そして歴史がすべてを解決する!

 選挙と議会と投票制が如何にブルジョア独裁(武力と強権と買収)を覆いかくすもの、そのつい立、その装飾品、よろいを隠す衣(ころも)であるかを証明するものはいくらでもある。ヒトラーもあまりにも有名である。一九三三年十一月に実施されたドイツ総選挙は、九六%という高い投票率と、九二・二%という最高の得票率で、ドイツの運命をヒトラーに託するという全権委任法を採択した。ナチスのファシズムはドイツ議会が満場一致で承認したのである。日本も同じことで、日本軍国主義ファシズムとその一貫した侵略戦争は、日本帝国議会の全面的支持と協力のもとで進められた。軍部を批判する発言があると、議会自身がそういう議員を除名した。最近ではロッキード問題がある。日本の歴史上では現職の総理大臣による疑獄事件として最大のこの犯罪で、田中角栄は一九八三年十月の一審判決で有罪となった。しかしこの年の十二月総選挙、いわゆるロッキード総選挙で、当時の世論調査で日本国民の八〇%が田中退陣を求めているにもかかわらず、彼は日本憲政史上議員としては最高の得票率(四六・五%)と、最高の得票(二二万票)を獲得した。こうして田中角栄は、自民党最大の派閥、田中派を維持掌握しつつ、長期にわたって、死ぬまで日本政界に君臨したのである。内外にわたるあらゆる政治的事件や事実は、議会と選挙と投票制が、古代ギリシャ以来今日まで、独裁政治の愚民政策として運用されてきたことを見事に証明している。


結 語

 人類の歴史は原始時代―奴隷制時代―封建制時代―資本主義時代へ、そして現代独占資本と帝国主義の時代に登りつめた。資本主義の頂点に達した現代、らん熟し、腐敗し、堕落してしまった現代、その権力はもはや統治能力を失ってしまった。もはや老いてしまったのである。
 歴史の到達点はコミュニティーである。人類が最初に作り出した原始共同体社会は、より発展し、前進し、より高度になって元に帰っていく。階級なき共同体、自覚し、認識し、確認しあった共通の意志にもとづく直接的な民主主義としての評議会を通じて、生産も、分配も、統治も、すべては共同体の中で執行される。人類最初の社会はそうであったのだ。
 人類の歴史を見ればわかるとおり、一つの支配権力、一つの国家形態が永遠であったことは一度もない。歴史は常に運動し、変化し、発展し、転換して次々と新しい時代を作り出していった。そして歴史を見ればわかるとおり、変化は静かで一直線ではない。爆発と収れんは歴史法則である。歴史は必然を持って前を目指すが、その過程では常に偶然が伴う。偶然は必然のための産物であり、偶然は必然のための糧である。そして必然の世界とは人民の人民による人民のための世界であり、より高度に発展したコミュニティー社会である。歴史は到達すべきところに必ず到達する。
(以上)