2015年(平成27年)10月25日付 434号


現代日本はファシズムか、真の民主主義をめざして、コミュニティー共同体を求めるか、歴史の転換期を迎えている!

憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法案は安倍晋三政権が強力に推し進めたが、9月19日未明の参議院本会議で、自民・公明など与党の賛成多数で可決・成立した。
 この法律の核心は、その時の政府による政治判断で自由に自衛隊を出動させて戦争を進めることができるというもので、これはまさに戦争を放棄した憲法に違反している、という多数の意見と対立したまま政府は強行した。日本国憲法第9条は次のようになっている。
 憲法第9条
 @ 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 A 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 このように憲法は戦争を放棄しているにもかかわらず、安倍政権は、その解釈を変えること(憲法は自衛権まで否定していないという解釈)で今回の法律を作ったのである。
 そしてこの法律が国会に上程されるや国内は騒然となっていった。
 まず、憲法学者の多数がいっせいに反対行動を起こした。「憲法は明確に戦争を否定している。もしそれが不適切なら憲法を改正するのが先決ではないか。それをせずに、その時の政府が自由に解釈して、憲法違反を犯すのは民主主義の原則を踏みにじる犯罪行為である」と宣言した。
 憲法学者のこの声明は日本の各界、各層に大きな衝撃を与えた。そして学生、市民も決起し、国会へのデモはあの「60年安保闘争」の再現とも言われるようになった。法律専門の弁護士連合会、そして元最高裁長官や、元内閣法制局長官や、ノーベル物理学賞受賞者や、多くの知識人がつぎつぎと安倍政権批判の声をあげた。
 新聞や雑誌の世界では安倍政権のまわりは「反知性主義」(知性、知識、理性もない、独善主義)の集まりだ、という説も出てきた。
 「60年安保闘争」の再来ともいわれた今度の「安保法案反対運動」の高まりを単なる偶然の出来事だと考えてはならない。これは日本における、安倍政権という右翼民族主義政権に対する歴史の反撃としてみなければならない。つまり、安倍政権という右翼民族主義政権が、昔の日本へ、古い日本へと、後戻りさせようとすることに対する歴史(大衆の行動)による反撃なのである。歴史は前へ前へと進むものであって、けっして後へは戻らないのである。そしてこれは今全世界に出現している民族主義運動の日本におけるその一つであり、巨大な現代史の流れの中の一つだという哲学・歴史科学的世界観に立脚しなければならない。
 現代の歴史時代とは何か。それは世界は無重力の時代であり、漂流する時代であり、大衆の怒りがいたるところに爆発している時代である。その根底にあるのは資本主義というこの政治・経済・社会制度が生み出す必然の産物としての政治的抑圧と生活苦、失業と貧困、格差社会の拡大と前途への不安、である。この現象と原因については水野和夫氏の著作『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)が正しく解明しているとおりである。つまり歴史は人類社会の根本的転換期に到達しているのであり、著名な自然科学者・福岡伸一氏がその著書『変わらないために変わり続ける』(文藝春秋社刊)で説くように、人類社会は永遠に存在し続けるために、原始社会から奴隷制へ、そして封建制から資本主義へ、こうして次の時代たるコミュニティー共同体へと変わらなければならない時代に到達しているのである。歴史は変化を求めて爆発する。
 これは哲学歴史科学の必然の法則である。この必然性が、人類社会最後の帝国主義国家たるアメリカ帝国主義の一極支配を終わらせた。その結果ついに世界は重力を失い、無政府状態となり、バラバラになり、必然的に、人間欲望の自由主義の国家形態たる民族主義が一斉に爆発したのである。
 今日、全世界に吹き上がる対立と抗争、内乱と暴動、国家間の紛争と非難合戦などはみな、すべては歴史と民族主義の爆発である。民族主義が形や姿を変えて、宗教対立となり、経済紛争となり、国境紛争となる。しかし歴史が証明しているとおり、民族主義に未来はない。歴史が封建制の遺物としての民族主義を拒否するのである。それは、民族主義の典型であったヒトラーと日本軍国主義の歴史が明確に証明しているとおりである。民族主義は戦争の源泉でもある。
 そういう哲学・歴史科学の運動法則が現代日本の右翼民族主義を生み出し、歴史がこれを否定しているのである。


安倍政権による安全保障関連法の実現は、憲法を自由解釈してやりぬいた、ということで、ヒトラーの全権委任法と同じ性質で、誠に危険な政治思想である。しかしこれはヒトラーの運命と同じように、歴史によって必ず否定されるであろう。

 9月18日付の朝日新聞に憲法学者である高見勝利・上智大学教授は次のような一文を寄せている。
 「法の支配」根幹揺らいだ
 〔安全保障関連法案は言うまでもなく違憲だ。憲法9条は武力の行使を永久に放棄しているが、外国から武力攻撃を受けた場合、かろうじて個別的自衛権の行使が認められると解釈されている。……
 国民的合意の上に定着している憲法解釈について、政府が「黒」を「白」だというような変更を行うことは、憲法の安定性を根底からひっくり返すクーデターのようなものだ。
 本来、安全保障関連法案は、憲法96条に従って国民投票を行い、集団的自衛権の行使を認める内容の憲法改正を行ったうえで成立させるべきものだ。9条を改正せず法案を成立させるのは、国会だけで事実上の憲法改正を行い、国民の憲法改正権を奪い取ることにほかならない〕と。
 「参院委の議決法的に認められぬ」弁護士225人共同声明
 与野党議員がもみ合いになり騒然とする中で安全保障関連法案を可決した17日の参院特別委員会の議決は「法的にみて議決とは認められない」として、弁護士有志225人が18日、議決はなかったことの確認と審議再開を参院に求める声明を発表した。
 声明によると、参院規則には、採決するときは議題を宣告した上で、賛成議員の起立で多数か少数かを認定し、結果を宣告すると規定されている。しかし、委員会の映像記録では確認できず、速記録(未定稿)でも「発言する者多く、議場騒然、聴取不能」としか記載されていない。弁護士らは「賛成多数か否かの確認が不可能な状況だった。法的に見て議決が存在したとは到底評価できない」などと指摘している。
 以上のような事実を見てもわかるとおり、安倍政権のやり方はまさにヒトラーの「全権委任法」とまったく同じだと断定できるのである。歴史はこのことに反応し、日本人民はこのことに反対して行動しているのである。

「カウンターデモクラシー」の問題について。歴史は投票にもとづく選挙制度という愚民政治ではなく、真の大衆的で、正しい民主主義、つまり直接民主主義制度を求めている。ここに歴史の要求があり、歴史がこの問題をいま取り上げているのである。

 9月18日付『朝日新聞』の「天声人語」欄に「カウンターデモクラシー」についての一文が掲載されていた。この一文の意味は次の点にある。
 つまり安倍政権によって強行可決された安全保障関連法案はすべてが法律違反の権力執行であった。立憲民主主義は完全に否定された。今こそ民主主義とは何か、何が本当の民主主義かを考えなければならない。つまりカウンター(現代の選挙制度、投票制度とは違う、別の)民主主義を考える時代が到来したのではないか、という問題を提起したということ。ここにこの一文の政治的意義がある、と考えねばならない。
 この問題は古くて新しい問題であり、大いに議論されたことでもあり、選挙にまつわる多くの醜聞とあわせて話題にもなっていた。それが今回の事件を通じて新しく取り上げられた、というわけである。
 われわれは昔から論じてきたが、今改めてこのことを論ずることにしたい。


投票による選挙とは何か

投票によって政府や政治家を選ぶという方法が出現したのは紀元前5世紀の古代ギリシアであった。ギリシアには当時多くの都市国家(ポリス)が生まれたが、その中のアテネは早くから市民参加型の政治が発展し、やがて投票によって政治指導者を選ぶ方法が採用されるに至った。そして投票用具に用いられたのが陶器の破片であった。投票の結果、市民に人気のない指導者は追放された。そこから歴史上「陶片追放」という言葉が生まれた。結果としてこの制度は、結局は人気投票となり、そこから大衆迎合(ポピュリズム)という悪しき風習が作り出された。そしてそこからこの方法は政治指導者や、政党間にとって人気取りの政争道具になった。アテネでは政治の無能力と分裂を生み出し、国力は低下し、やがて隣国のスパルタに敗北した。
 ここで改めて、はっきりと、投票とは何か、ということを考えてみなければならない。選挙と投票に人びとを駆り立てる行動、何が人びとを投票に行かせるのか。それはあくまでも個人の自由主義、自由行動なのである。すべて個人的事情が根底にある。その契機となるものは、あるときは気の向くままであり、そのときの気分であり、風の吹くままであり、付和雷同である。ある人にとっては個人的知り合い、同郷の人、学閥、同好会、宗教心、名誉欲、そして金であり、物品であり、強制である。ここに個人行動と自由主義と無政府主義がある。だから投票というのは、大衆の後れた部分、社会と切り離され、孤立した個人、個人的幻想と錯覚と夢想にもとづく行動であり、ここに愚民性と衆愚性の本質がある。
 しかしこの制度は大衆支配の手段、ブルジョア自由主義の装飾物として、より巧みに引き継がれていく。つまりは大衆の理性・自覚ではなく、その本能を利用し、本能を駆り立て、自由主義を叫びたて、風の吹くまま、気の向くまま、行き当たりばったり、そのときの個人的感情によって誰かに投票するという、まさに無政府主義、愚民主義、衆愚主義という、ブルジョア政治の根幹になってしまったのである。

投票とは無自覚なる大衆をごまかす愚民政策である。自覚した大衆は偉大であり、無自覚なる大衆は烏合の衆である。そしてブルジョア権力は愚民政策で大衆を支配する。その実例はナチス・ヒトラーと田中角栄が立証している。大衆の二面性を知れ。そして歴史がすべてを解決する。

 選挙と議会と投票制が如何にブルジョア独裁(武力と強権と買収)を覆いかくすもの、そのつい立、その装飾品、よろいを隠す衣(ころも)であるかを証明するものはいくらでもある。ヒトラーもあまりにも有名である。1933年11月に実施されたドイツ総選挙は、96%という高い投票率と、92・2%という最高の得票率で、ドイツの運命をヒトラーに託するという全権委任法を採択した。ナチスのファシズムはドイツ議会が満場一致で承認したのである。日本も同じことで、日本軍国主義ファシズムとその一貫した侵略戦争は、日本帝国議会の全面的支持と協力のもとで進められた。軍部を批判する発言があると、議会自身がそういう議員を除名した。最近ではロッキード問題がある。日本の歴史上では現職の総理大臣による疑獄事件として最大のこの犯罪で、田中角栄は1983年10月の一審判決で有罪となった。しかしこの年の12月総選挙、いわゆるロッキード総選挙で、当時の世論調査で日本国民の80%が田中退陣を求めているにもかかわらず、彼は日本憲政史上議員としては最高の得票率(46・5%)と、最高の得票(22万票)を獲得した。こうして田中角栄は、自民党最大の派閥、田中派を維持掌握しつつ、長期にわたって、死ぬまで日本政界に君臨したのである。内外にわたるあらゆる政治的事件や事実は、議会と選挙と投票制が、古代ギリシャ以来今日まで、独裁政治の愚民政策として運用されてきたことを見事に証明している。

「アラブの春」はその後投票による選挙という愚民、衆愚政治の結果、以前よりもいっそう後退した混乱と混迷と迷走を生み、結局は再び独裁権力の出現となる。

 2013年7月3日、エジプトで軍事クーデターが発生、モルシ大統領と現職の政治指導者は全員逮捕・投獄・追放された。エジプトでは30年間のムバラク軍事政権の独裁が大衆デモで崩壊、2012年6月、エジプト史上初の投票による選挙でモルシ大統領が出現した。憲法にもとづいてあと3年も任期があるのに軍の力で追放されたのである。これが投票による議会主義の末路であり、議会主義的民主主義の本質がここにある。
 2010年12月、チュニジアから始まった「アラブの春」は、リビア、イエメン、バーレーン、そして中東の大国エジプトへと拡大、「アラブの春」といわれる大変革をもたらした、これらの国々は20年から40年間にわたる独裁権力を、大衆デモと大衆行動と大衆的圧力によって打倒し、いわゆる民主主義政治を実現させた。つまり選挙によって民主主義を成立させたのであった。だがその後の歴史的事実をみればわかるとおり「アラブの春」をうたったこの国々はみな、経済の低迷、失業と貧困、治安の悪化、政治の混迷、テロの拡大に苦しみ、大衆の不満はいたるところに満ちあふれた。そしてエジプトの軍事クーデターである。どこに選挙による民主主義の成果というものがあるのか。


現代歴史は直接民主主義を求めている。それは投票による選挙という間接民主主義ではなく、人民の意思を、人民の手で集約し、確認し、決定し、直接執行する評議会を通じてのみ実現できる。歴史科学の法則が、人民による人民のための人民の政治と社会・コミュニティー共同体を要求している。その扉を開くものこそ評議会である。

 現代資本主義は世界的規模において混迷と混乱と迷走に陥っている。アメリカの一極支配は終わった。世界は無極状態になった。経済・政治・社会のすべての分野にわたってあらゆる矛盾が爆発している。これらの現象はみな、現代世界、現代資本主義、現代の歴史時代、つまりは人類の世界が大転換期にあり、根本的な変革を求める歴史の激動なのである。ここに歴史科学がある。
 歴史が求めているのは何か。それは現代世界を支配している独占資本主義の支配が生み出す市場原理という名の弱肉強食、最大限の利益追求、物質万能主義と拝金主義、人間性そう失の腐敗と堕落からの脱出、そのための階級なき人民の世界、コミュニティー共同体である。
 歴史はすでに、自然発生的に人民大衆の手によって共同体が作り出されている。朝日新聞の2012年2月9日付によれば、イタリア北部、フランス南部、スペイン北部の都市ではアメリカのスーパー出店に反対して、資本主義的大量消費と過剰な販売競争に巻き込まれるな、今まで通りの平和で平穏な生き方を守ろう、と「コンビビア(共同体)」運動を始めた、という。
 朝日新聞2013年6月4日付に、フランスの哲学・経済学者であるセルジュ・ラトウーシュ氏が一文を寄せ次のように語っている。「人間の幸せのカギは脱成長にある。経済成長主義は人間本来の共同体の精神を破壊してしまった」と。
 日本では著名な政治経済学者である中谷巌氏が『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社刊)で、同志社大学の教授・浜矩子氏が東洋経済新報社刊の著作で、共に「資本主義の市場原理主義は人間に真の幸福をもたらさなかった。人間性に満ちた幸福はコミュニティー以外にない」と主張している。
 人類の歴史が示しているように、生産力のなかった原始共同体から、生産力が生まれた奴隷制、そして封建制から資本主義へ、独占と帝国主義に到達した歴史時代はついに人類の前史を終わり、新しい時代としてのコミュニティーへと前進する。歴史はけっして元には戻らず、前へ前へと進むものであり、ここに科学的法則がある。目的意識性をもった先進的人びと、知識人、そして前衛的分子はこの必然性に向かって大衆の先頭に立たねばならない。歴史は先進性と前衛性なしには必然性に到達しない。そして歴史はまたこの先進性と前衛性を生み出す。そのとき歴史の必然性を達成させる力こそ、投票による選挙ではなく、人民の要求を実現させる直接民主主義たる「評議会」である。われわれは投票による選挙という愚民性、衆愚性をしっかり、はっきり認識しなければならない。


評議会とは何か
人民にとって直接民主主義、人民の権力機関、権力におけるトップダウンとボトムアップの統一体、ここに評議会の本質と意義がある。この思想性と政治性を正しく認識せよ!

 人類の歴史を見ればわかるとおり、原始共同体社会が崩壊して奴隷制国家が生まれて以来、封建制、資本主義制、そして独占と帝国主義を通じて常に戦争と内乱、テロと暴力は絶えることはなかった。その根幹はすべて権力闘争であった。政治闘争は権力闘争であり、権力闘争は力(経済力、政治力、行動力、軍事力)が決定する。
 そして歴史科学が要求する歴史の転換、人民による人民のための人民の政治と社会の実現もまた権力闘争であり、権力が解決する。その人民の権力、人民の力、人民の武器こそ、直接民主主義の執行機関たる評議会なのである。
 評議会とは人民大衆がその属性に従ってそこでの直接大衆討論、大衆討議を通じて、共通の認識と共通の意思を確認し、決定し、評議会として権力執行する。これは人民大衆の各界、各層、各戦線、各地区において下から上へと積み重ね、最終的には全国評議会に集約され、収れんされる。これがトップダウンとしての権力を支えるボトムアップなのである。トップとボトムの統一(対立物の統一)こそ正しい存在の哲学原理である。
 そしてまたこのような人民権力であってこそ、人民大衆の創意は反映され、結果として自らの権力、自らの国家と政治に責任と義務を人民は自覚して負うのである。
 評議会という名の人民権力は、大ブルジョアジーの支配権力に対抗する運動と闘い、人民戦線運動の中から必然的に生まれ、成長し、一定の歴史的転換期に爆発し、相転移する。こうして旧権力に取ってかわるのである。ここに弁証法的運動法則がある。


結語

 ▼人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求に注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ。ここにコミュニティーがある。
 ▼コミュニティーでは階級支配は基本的には消滅する。共同体社会であるかぎり、そこには人民大衆、ただ一つの階級社会である。人民による人民のための人民の社会である。故にこのような社会(存在)が、そのような存在(環境)がそれにふさわしい人間を作り出していく。環境が人間を作り出す。新しい時代と新しい社会と新しい環境が新しい型の人間を生み出す。こうして人類の前史は終わり、人類社会は新たな闘いに向かって前進する。それは全宇宙との闘い、宇宙の開拓と開発の闘いである。
 ▼人類の歴史を見ればわかるとおり、一つの支配権力、一つの国家形態が永遠であったことは一度もない。歴史は常に運動し、変化し、発展し、転換して次々と新しい時代を作り出していった。そして歴史を見ればわかるとおり、変化は静かで一直線ではない。爆発と収れんは歴史法則である。歴史は必然性をもって前を目指すが、その過程では常に偶然が伴う。偶然は必然のための産物であり、偶然は必然のための糧である。そして必然の世界とは人民の人民による人民のための世界であり、より高度に発展したコミュニティー社会である。歴史は到達すべきところに必ず到達する。
 ▼人類が最初にはじめてつくった社会は、原始的ではあったがそこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティー国家と社会へ。ここから本当の人類の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて新しい闘いに進軍する。
                                   (おわり)