2016年(平成28年) 10月25日付 446号


投票による議会主義という自由主義的民主主義は無政府主義と大衆の無力化を生み出す。一九五八年のフランスにおける経験はその典型である。「賢者は歴史に学べ」!

投票による議会主義とは、愚民政治であり、衆愚政策であることをしっかり確認せよ。

 投票によって政府や政治家を選ぶという方法が出現したのは紀元前五世紀の古代ギリシャであった。ギリシャには当時多くの都市国家(ポリス)が生まれたが、その中のアテネは早くから市民参加型の政治が発展し、やがて投票によって政治指導者を選ぶ方法が採用されるに至った。そして投票用具に用いられたのが陶器の破片であった。投票の結果、市民に人気のない指導者は追放された。そこから歴史上「陶片追放」という言葉が生まれた。結果としてこの制度は、結局は人気投票となり、そこから大衆迎合(ポピュリズム)という悪しき風習が作り出されてしまった。そしてそこからこの方法は政治指導者や、政党間にとって人気取りの政争道具になってしまった。アテネでは政治の無能力と分裂を生み出し、国力は低下し、やがて隣国のスパルタに敗北してしまった。
 しかしこの制度は大衆支配の手段、ブルジョア自由主義の装飾物として、より巧みに引き継がれていくのである。つまりは大衆の理性・自覚ではなく、その本能を利用し、本能を駆り立て、自由主義を叫びたて、風の吹くまま、気の向くまま、行き当たりばったり、そのときの個人的感情によって誰かに投票するという、まさに無政府主義、愚民主義、衆愚主義という、ブルジョア政治の根幹になってしまったのである。
 ここで改めて、はっきりと、投票とは何かということを考えてみなければならない。選挙と投票に人びとを駆り立てる行動、何が人びとを投票に行かせるのか。それはあくまでも個人の自由主義、自由行動なのである。すべて個人的事情が根底にある。その契機となるものは、あるときは気の向くままであり、そのときの気分であり、風の吹くままであり、付和雷同である。ある人にとっては個人的知り合い、同郷の人、学閥、同好会、宗教心、名誉欲、そして金であり、物品であり、強制である。ここに個人行動と自由主義と無政府主義がある。だから投票というのは、大衆の後れた部分、社会と切り離され、孤立した個人、個人的幻想と錯覚と夢想にもとづく行動であり、ここに愚民性と衆愚性の本質がある。
 そういう愚民政治・衆愚政治の生きた実例、歴史上の実例はブルジョア議会政治のいたるところに、日常茶飯事として山ほどあるが、大きな、代表的でわかりやすいものとしてナチス・ドイツのヒトラーと、国内的には田中角栄の例に見ることができる。あの第二次世界大戦を引き起こした元凶たるナチスとヒトラーの出現はドイツ国民議会が生み出したのである。一九三三年十二月に実施されたドイツにおける議会総選挙、ナチスとヒトラーへ全権委任するための総選挙では実に九六%の投票率と九二・二%の得票率という、世界史上最高の投票結果からナチスとヒトラーは生み出されたのであった。そして、日本の総選挙史上最高の勝利を得たものは、一九八三年十二月総選挙で田中角栄が得た二十二万票、四六・五%という史上最高の得票であった。しかもそれは、日本史上はじめての現職総理大臣の疑獄事件(ロッキード事件)で有罪判決を受けた直後の、いわゆる「ロッキード総選挙」で、国内世論の八〇%が田中退陣を求めるという社会風土の中での出来事であった。こういう歴史上の事実が証明しているように、投票による議会主義というものが、いかに愚民政治、衆愚政治であるかということをわれわれはよく知らねばならない。これはブルジョア政治の出現以来続く伝統であり、ブルジョア思想に毒された人間には理解されないが、それは労働者階級と人民によって必ず打破される。
 そしてまた、選挙における投票率も考えてみなければならない。あらゆる選挙をみればわかるとおり、平均すれば五〇%の投票率である。だからそのなかの七〇%を獲得して第一党となったとしても、政権をとったその政党は全有権者(全国民)の三五%しか代表していないのである。これが大衆参加、国民の支持、選挙での勝利といえるのか。民主主義という名に値(あたい)するものだろうか。否である。ここにも愚民性、衆愚性がある。
 真の民主主義とは、自覚された人民大衆の共同の意志、共通の認識、協同行動にもとづく政策の確立と確認、である。人民大衆は、生産点、生活点、つまり労働と生活の中で、互いに協力し、共同し、共通の要求にもとづく運動と闘いの中で、連帯し、交流し、自らのコミュニティーを作り上げていく。ここに真の民主主義がある。その集大成されたものこそ「評議会」である。


一九五八年に発生したフランスにおけるドゴール独裁権力の出現は、ヒトラーを生み出したワイマールと同じように、議会主義的クレチン病が原因であったことを忘れるな。すべては歴史の法則である。

 ヘーゲルは歴史上の大事件や、大人物は二度現れるといった。一九三三年のドイツにおけるワイマールがヒトラーを生み出したように、一九五八年のフランスにおけるドゴール独裁権力の出現は、姿や形は違っても、その本質はまったく一九三三年のドイツと同じであった。
 われわれは改めて、この二つの大事件に共通している議会主義という自由主義的民主主義の本質を、具体的事実を通じて認識しなければならない。
 マルクスはかつて「階級闘争の戦略・戦術に関して共産主義者はフランスから深く学ばなければならない。この面に関してフランスは宝庫である」と語った。フランス大革命と「人権宣言」がそうであり、ナポレオン帝政と「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」がそうであり、「パリ・コミューン」がそうであった。そしてここに記録した一九五八年の事件もそうである。
 フランスにおける第二次大戦後の国民議会で特徴的なことは、常にフランス共産党が第一党であった、ということである。一九四五年十月に実施された第二次世界大戦終了後の総選挙では共産党・一五二議席、社会党・一五一議席、人民共和派・一三八議席、であった。一九四六年十一月の選挙では、共産党・一八六、人民共和派・一六六、社会党・一〇三であった。なぜ共産党は常に第一党だったのか。それは歴史が生み出したものである。
 一九四五―六年の総選挙といえば、第二次世界大戦の直後である。第二次世界大戦中のフランスといえば、ナチス・ヒトラーの占領下におけるあの有名な「レジスタンス(抵抗)運動」を知らぬものはいない。数々の物語に、映画に、演劇に、小説に、詩に、その英雄的で、愛国的で、悲劇的な闘いと運動は、全世界に感動をよびおこした。ルイ・アラゴンの『フランスの起床ラッパ』は世界の若者たちに、祖国と民族のために死すことの美しさを教えた。そして「レジスタンス」といえばそれはフランスの労働者階級であり、それはフランス共産党であった。フランスが敗れ、ナチスの手先としてペタン元帥のヴィシー政権が樹立された一九四〇年の末から、フランス全土に反ナチ抵抗運動がおこり、それは「闘争(コンパ)」「解放(リベラシオン)」「義勇隊(フランス・ティエール)」「国民戦線(フロン・ナシオル)」、あるいは「マキ団」などという各種の抵抗組織が生まれ、これには労働者も、農民も、商工業者も、政治家も、学者も、教師も、生徒も、婦人も、青年も、軍人も、官吏も、共産主義者も、カトリック僧侶も、自由文化人も、すべてのフランス人が参加した。ナチスの支配下にあっては、このレジスタンスに参加することは死を覚悟しなければならないものであり、報いられるものはなく、求められるものは苦難以外の何ものもなかった。目の前には拷問と死刑がまっているこの闘いに参加させたもの、それは「自由と人間性と祖国のために」であり、「ひざまずいて生きているよりは立って死ぬ」という民族的良心と人民的怒りであった。そして重要なことは、このレジスタンス運動の最も困難な部署を受け持ったもの、それはフランス共産主義者であった。だから最も犠牲の多かったのが共産党であり、この党は当時「銃殺される者の党」とよばれていた。レジスタンスの犠牲者三万、ドイツの収容所へ送られた者十五万、帰国できた者はわずか四万にすぎなかった。
 やがて一九四三年二月、スターリングラードの攻防戦でドイツ軍が敗北、戦局はナチスの崩壊へとすすむ。これにあわせてレジスタンス各組織は団結・統一して、ここに『全国抵抗評議会(ソビエト)』を結成、一九四四年二月には武装した民兵によるフランス国内軍を編成した。一九四四年八月から全フランスは労働者のゼネストに突入、同時にパリは武装蜂起へ。八月二十四日、パリは連合軍と国内軍によって解放された。フランス解放は外からの連合軍、そして国内でのレジスタンス。レジスタンスは共産党。この空気は戦後のパリにおける映画館で、ニュース映画にスターリンが現れるや、場内は熱狂と大歓声につつまれたというエピソードがよく現していた。こうしたなかでの戦後の総選挙であったのだ。ゆえにフランス解放の最大の英雄、レジスタンスの英雄、フランス共産党が第一党になったのは当然ではあるまいか。
 こうしたなかで一九五八年がやってきた。当時第四共和制下フランス国民議会は、第一党がフランス共産党・一四八議席、第二党は急進社会党・九九議席、第三党は社会党・九六議席、第四党は人民共和派・七三議席で、以上が左翼を構成し、右翼には独立諸派・五九議席、プジャード派・三七議席、ドゴール派・一六議席、その他・五八議席、であった。
 そして第四共和政下の政府はみな弱体で、内閣が二十六回もかわるという状況であった。それは結局、中道政党による連立内閣が何もできない内閣で、何か重大な政治問題が発生するとすぐ分裂して崩壊していったからである。そのとき、もっとも革命的であるはずの共産党までが、議会主義に陥り、あるときは中道政党に引きづられたり、あるときは中道政党の連合のまえにボイコットされたりして、議会主義に陥ったにもかかわらず、議会の中ではいつも孤立していた。
 フランス国内で弱体内閣が右往左往しているとき、国外ではフランス植民地での民族闘争が高まり、つぎつぎとフランスは植民地を失っていた。そしていよいよ、フランスにとっては最後の植民地であるアルジェリア独立戦争が最後の段階に到達しつつあった。フランスの独占資本とブルジョアジーはアルジェリア植民地の支配権の保持、そのための本国における強力な政府の樹立を求めてドゴールの出場を早くから画策していた。だが、いくら選挙をやっても、議席の拡大にもとづく議会を通じたドゴール内閣の出現は不可能であった(ドゴール派はわずかの一六議席である)。独占資本にとっても議会はもはや無用のものとなった。
 ドゴールの独裁政権樹立のための実力行動、反革命的暴力、軍部と右派政治勢力の力によるクーデターは、いまやフランスにおける矛盾の集中地点たるアルジェリアではじまった。
 【一九五八年五月十三日】無能な中道連立政権たる人民共和派のフリムラン内閣が社会党や共産党の支持で組閣されたこの日、あくまでドゴール独裁政権の樹立を叫ぶ右派民衆と軍部が合流して、アルジェリアの首都、アルジェでは大規模なデモが発生、その中の急進的な右翼デモ隊の千人は、「アルジェリアはフランスのものだ」、「無能な中道政権ではなく、ドゴールに政権を」と叫びつつ、アルジェ政庁に乱入、略奪行為をほしいままにするとともに、ここを占領、アルジェ放送局も占領した。デモ隊はそのあと「アルジェ公共治安委員会」の樹立を宣言。これはアルジェリアにおける唯一の政府であると内外に声明した。
 フリムラン首相は十四日、アルジェリア駐留フランス軍の総司令官・サラン将軍にアルジェの治安維持に関する全権を委任した。
 【五月十五日】公共治安委員会はアルジェだけでなく、アルジェリア全域に組織された。そしてこれらの委員会を一つにまとめ統合した機能を保持するアルジェリア公共治安委員会が発足した。本国ではドゴール将軍がようやく腰を上げ、この日はじめて記者会見し「国家が私を必要とするならばいつでも出馬する」という声明を発表した。アルジェ政庁前広場にあつまった五千人の民衆は、ドゴール将軍の出馬声明が発表されるや、〝ドゴール・ドゴール〟という大合唱をとなえた。社会党は「第四共和制の危機」をよびかけ、共産党は議会の招集を提案、フランス労働総同盟はゼネストの用意(用意だけだ)があると声明した。そして十五日の夜は社会党、共産党の議員は議会に泊まり込んだ(恐怖におののく日和見主義者のうろたえぶりをみよ)。
 【五月十九日】ドゴール将軍はパリに姿を現して多数の記者団を前に演説した。彼は、いまやフランスを救うことのできるのは私だけである。フランスは私に任せるべきだ。(どのようにして政権をとるのか、という質問にこたえて)、現在は誠に異常な時期にある、したがってまたその政権は異常な手続きによってのみ可能だ。その異常な手続きとは具体的には何か、ということは情勢が解決する、と語った。
 【五月二十五日】クーデター派のアルジェリア公共治安委員会スポークスマンは、ドゴール将軍の権力獲得を支持する運動は今やフランス領植民地の全体に波及したと発表した。フランス地中海艦隊のオーボーワノー司令官はドゴール将軍の権力獲得を支持する声明をアルジェリア公共治安委員会に送った。フリムラン内閣は、もはやドゴール独裁権力の樹立をめざして拡大されつつある公共治安委員会という名のクーデター権力をおさえることも、またこれとの妥協も不可能であることを知った。
 【五月二十七日】ドゴール将軍は声明を発表した。「自分は政権樹立のための必要な手段をとる。フランスの国軍は国家と私に忠実であることを信ずる」と。フランス共産党政治局は反ドゴールの闘いに決起するようアピールを発した。共産党系の労働総同盟は二十七日午後二時からストライキを決定したが、多くの組合はこれに同調せず成功しなかった。フランスの労働運動にはもはや、あの輝かしいレジスタンスの伝統も、革命的英雄主義も消えてしまった。そこにあるのは無気力と意気消沈した改良主義のみであった。それは結局、労働者階級の前衛党たるフランス共産党が革命性を喪失して社会民主主義に堕落したことにあった。
 【五月二十八日】この日の未明、第四共和制にとって実質上の最後の国民議会が開かれた。議会はフリムラン内閣が提出した憲法改定討議に関する決議案を賛成四〇八、反対一六五、の圧倒的多数で可決した。これはフリムラン内閣を信任してこの政府をあくまでおしたて、ドゴール内閣の出現を阻止しようとする議会の空気を反映したものであった。フリムラン首相はこの決議案が否決されれば総辞職する、と言明していたがゆえに、議会はフリムラン内閣信任、ドゴール反対、を表明したのである。ところがフリムラン内閣は、この決議案を支持した票の中には共産党の一四五票がある。しかし共産党は本当の支持票ではなく、自分はこれを認めない。したがってこれを差し引くと、この決議案は可決にはならない(可決の必要票は三分の二であった)。このように主張してさっさと内閣総辞職をしてしまった。フランスの第四共和制には、その憲法のどこをみても、共産党の一票を他の一票と区別するような項目は一つもない。にもかかわらずフリムランは憲法を無視し、議会主義を無視して第四共和制を破壊し、ドゴールへの道を清めていったのである。コティ大統領はこのなりゆきをみつめつつ、フリムランの辞職が決定的となったとたん、直ちに大統領官邸当局のコミュニケとして「大統領は二十八日夜までには新内閣の首班たるべき人の訪問を求めたいと希望した」と発表した。待っていました、というばかりである。
 【五月二十九日】コティ・フランス大統領は午後三時、国民議会に対して次のような特別メッセージをおくった。「私はドゴール将軍にこちらに来て政権について私と協議するよう要請する。いまやわれわれは内乱の一歩手前にきている。双方の陣営がいま兄弟互いに殺し合うような闘いの準備をしているようにみえる。これを救うのはドゴール将軍だけである。もしドゴール将軍のもとで政府をつくることができなかった場合には私は辞職する」。夜になってドゴール将軍はコティ大統領と会見、大統領の組閣要請についてドゴールは「私の政府は現在の重大な事態に対処するに必要な全権限を一定期間与えられるべきであること。また私の新政府は憲法改定、その他必要な法律の改定についても議会ではなく、直接国民投票に問う権限をあたえられるべきである」と答え、コティ大統領は無条件にこれを承認した。
 【六月一日】フランス軍の決起、アルジェ公共治安委員会の総動員による本国への上陸、右翼と軍のクーデター、などのうわさに、国民議会は浮き足立っていた。フランス国民の大多数と議会の多数は「クーデターか、人民戦線か」、あるいは「ドゴールか、共産党か」の二者択一をせまられた。そしてその結果、民衆と議会の多数は、クーデターにおびえ、軍の決起による国内の混乱におびえ、「必要悪」として共産党よりもドゴールを選ぶ決心をした。
 こうして、午後七時半、議会は、議会外の重圧のなかで開会、ドゴールを、賛成三二九票、反対二二四票、という票決のもと、首相とみとめた。もちろんこの票決にあたってドゴールは、「六ヵ月間の間にすべての全権を付与すること。憲法を改定してこれを国民投票にはかる権限を付与すること」など、独裁的機能を自分に与えるよう求めていた。したがってドゴールへの信任はすべてこれらの全権をドゴールに与えることを意味した。これはまぎれもなき、議会のドゴールへの屈服であった。そしてドゴールは何をしたか。六ヵ月間の全権をにぎった彼は、やがて新憲法「ドゴール憲法」を作成し、これを議会にはかることなく国民投票にかけた。九月二十八日の国民投票は賛否およそ四対一の多数で新憲法を承認した。こうして一九五八年十月五日、第五共和制が発足、ドゴール時代へと進む。この時代はまさに「近代的帝政」の時代であり「ドゴール君主制」の時代であった。選挙法も改定された。十一月のドゴール支配下の総選挙では中道左派のマンデスフランス、ミッテランも落選、第四共和制下ではいつも第一党、第二党を保持していた共産党もわずか一〇議席に転落、以後フランス共産党は再び第一党にはなれない。ブルジョア独裁の実力による勝利であった。
 なお念のために付け加えておきたいことは、フランスの出来事は何もフランス独特のものではなく、同じことは、形を変えて、一九七六年のイタリアでもおこった。イタリアではこの年の総選挙でイタリア共産党が第一党になったが、いつも様々な妨害で政権は取れなかった。


結語

 ⑴、アメリカの一極支配は完全に終わった。地球上最後の帝国主義たるアメリカ帝国主義は崩壊し、単なる一つの国に成り下がった。
 ⑵、世界中の主要な国々が集まっても、そこでは何も解決できなかったということは何か。それは各国は自分の国のこと、自分の内政に没頭しているのであって、外交は二の次であり、外交とは内政の反映(哲学的内因論)であることを証明した。
 ⑶、国家は自立し、民族は独立し、大衆は自覚し、あらゆるところから目覚めた人間の行動が激化する。対立と抗争、暴力とテロ、戦争と内乱はその過程の副産物であり、未来をめざす偶然性である。
 ⑷、そしていま、歴史が求めている人類の世界、人間の社会とは、まさに大衆社会、人民の世界、人間性社会であり、人民の・人民による・人民の政治と国家であり、階級なき国家、近代コミュニティー社会である。
 ⑸、人民大衆を主体とした国家と社会こそ本当の民主主義、真の自由と平和の国家と社会である。それを保障するのは、直接民主主義の制度たる評議会である。人間欲望の自由放任主義にもとづく投票制度と議会主義という自由主義的民主主義はブルジョア政治の見本である。人民大衆にとっては、真の協力・共同・連帯・人間性あふれる自覚されたコミュニティー社会こそ、戦争のない本当の平和社会である。
(以上)