2017年(平成29年) 6月25日付 454号


『資本論』に学べ。ここにこの問題の本質が解明されている。失業、格差、貧困は資本主義社会の法則が生み出す必然の産物である。生産力の発展が生産関係(国家と社会制度)を規定していく。この哲学科学的法則を知れ!

読売新聞は5月16日付で「格差是正に自由貿易が必要だ」という社説を発表した。社説はつぎのように訴える。
 〔世界経済の持続的成長には格差の是正が欠かせない。そのためにも、自由貿易体制の重要性の認識を先進国が改めて共有せねばなるまい。
 イタリアで開かれた先進7か国(G7)財務相・中央銀行総裁会議は共同声明で、「適度の格差は、将来の潜在成長率を抑制する」と警鐘を鳴らした。
 「多くの国で格差が顕著にみられ、特に低・中所得者に影響を与えている」とも指摘した。
 社会の分断や、地域間・世代間の格差拡大を是正できなければ、息の長い成長は望めない。この観点から、政策協調を深めようとするG7の合意は評価できる。
 声明は、財政出動と構造改革を組み合わせ、低所得層にも恩恵が及ぶようにすべきだとした。
 欧米でポピュリズムが台頭した背景には、格差拡大による大衆の不満が影を落としている。格差社会の固定化は、成長の核となる中間層を弱め、活力を失わせる。それがG7の抱く危機感だろう。
 米国は、鉄鋼など競争力の劣る製造業地帯を抱える。欧州は、多くの国で若者の失業率が高い。各国は個別事情に配慮しつつ、効果的な施策を講じる必要がある。
 問題は、米国が自らの産業構造転換の遅れを棚に上げ、自由貿易をやり玉に挙げる保護主義的な主張を繰り返していることだ。
 麻生財務相が会議で「自由貿易が経済の繁栄に寄与してきた」と強調したのは、もっともである。同様の意見が相次いだという。
 ムニューシン米財務長官は会議後、「他国との貿易が公正ではない場合、保護主義的な行動をとる権利がある」と明言した。
 貿易が「公正」かどうかは、立場によって解釈が異なることが珍しくない。通商紛争が生じれば、世界貿易機関(WTO)の裁定に委ねるのが国際ルールだ。
 トランプ米政権は、自国に不利な場合は、WTOに従わない可能性を示唆している。G7を主導してきた米国が孤立を深める事態は極めて異常である。保護主義で世界経済の停滞を招けば、格差是正も果たせないだろう。
 今月下旬の主要国首脳会議(サミット)は、トランプ大統領が初参加する。今回の議論を踏まえ、貿易が主要議題の一つとなる。
 米国内の格差問題を、貿易相手国に責任転嫁する姿勢に変化がみられるか、どうなのか。
 米国が格差是正に本気で取り組むなら、国外に敵を見つける政治ゲームから卒業し、国内で実のある対策を急ぐべきである〕と。


生産力の発展が生産関係(国家と社会のあり方)を変化させていった。歴史を見よ!

アダム・スミスの『国富論』が示すとおり、資本主義的経済学の根本思想は「人間欲望の自由放任」であり、自由主義こそが経済繁栄の基礎であり、統制と保護は発展を阻害する、というものである。自由、自己流、自分勝手、を謳(おう)歌する。その一方では『欲望資本主義に憑かれた男たち、モラルなき利益至上主義に蝕まれる日本』(伊藤博敏著、講談社刊)の中で、堀江貴文や村上世彰など、拝金主義にまみれた経済犯罪人をとりあげ、欲望の泥沼社会を告発する声も高い。
 まさにこの問題こそ経済学の根底にある根本的思想問題なのである。この問題は観念論では解決できない。歴史科学以外に解答はできない。つまり、欲望とは人間のことであり、人間とは何かということであり、それは人間の歴史、人類の歴史をたどることによってのみ答えは出てくる。欲望とは人間のことであり、人間とは歴史が生み出したものであり、故に人間の欲望は常に歴史的なもの、永遠の過去から永遠の未来に向かって変化し、発展し、転化していくものである。欲望は固定したものではなく、歴史と環境によって変化し、転化していくものである。
 人類、人間は動物(猿)から分化して進化した。気の遠くなるような長い年月を経て、その姿、形、機能も進化し、発展し、変化してきた。特にその脳は人間だけが保有するその機能によって発達してきた。そしてその脳が生み出す欲望、感情、感覚、知能は決定的に変化していった。人間とその脳はすべて環境の産物であり、環境によってすべて作り出されてきた。そしてまた人間とその脳はその知的能力によって逆に環境を支配していく。それは人類の歴史をみればすぐわかることである。
 人類の歴史が証明しているように、人間の欲望と道徳感情というものは常に環境によって変化してきた。人類が最初に作り出した生活集団、その社会とは古代から原始にかけて存在したコミュニティーとしての原始共同体社会であった。そこではまだ生きるための欲望たる食も、住も、衣も生産することができないため、すべては大自然に依存していた。つまり、食、住、衣は生産ではなく、大自然からの採集であり、山野からの狩猟であり、河川からの漁労であった。しかも道具類はまだ発明できなかった時代、すべては人間の体、手足が道具となった。これで大自然の猛威と、各種の障害にたちむかっていくためには、人間の集団による一体としての協力と共同と連帯を必要とした。歴史時代とそのような環境が協力と共同と連帯の社会を作った。だからここでは獲得も所有も分配も社会的共有であり、社会的道徳感情論であった。だからそこには支配も、被支配もなく、真の自由と平等の世界があった。対立と抗争と戦争も必要なかった。平和な社会であったということは、歴史学者、人類学者、日本の考古学会の定説でも、縄文時代(原始時代)は平和な時代であったことを証言している。
 このような社会が崩壊し、社会的道徳感情がなくなり、支配者と被支配者の対立と抗争、戦争と内乱、犯罪と暴力が出現したのは、生産活動が発達して世の中に富と財産が生まれてからである。人類は大自然からの採集経済から、生産活動、物質生産の時代に移行した。知恵と知能の発達、道具の発明と改良も進み、生産力も高まった。その結果余剰生産物(備蓄)が生まれ、それが財産となった。当初これはコミュニティーの共同管理、共同所有であった。しかしそれが増加するにつれ、やがて力(知能、才覚、腕力)の強い人間とその集団が、自らの本能的欲望自由放任によって自分のものにした。私有化、私有財産が生まれた。彼らは力まかせに、大自然が生み出した人類社会のものである土地や山まで「これもおれのものだ」とばかりに占有し、私物化してしまった。そしてこの自らの所有、私有財産を守るために権力機関、支配機関(国家)を作り上げた。人類の最初の国家、古代奴隷制国家(古代ギリシアの都市国家、古代ローマ帝国)が強大になった代表例である。つまり、生産力の発展が生産関係(人間の相互関係、階級社会、権力と国家)を作り上げたのである。これが科学的にみた経済法則であり、史的唯物論なのである。
 こうした歴史時代が、こうした環境が、人間の道徳感情論を変化させ、人類社会に富と財産をめぐる争奪戦たる階級社会と階級闘争の人間道徳論を生み出したのである。すべては歴史と環境が欲望を変化させ、転換させ、その思想・意識が世界を支配していった。つまりは環境が人間を作り、人間が環境を支配していったのである。
 原始共同体が崩壊したあとの社会は奴隷制社会である。ヨーロッパでは古代ギリシャの古代都市国家(ポリスとしてのアテネ、スパルタ)、そして古代ローマ帝国であり、日本では弥生時代である。そしてこの時代から人類史上に戦争と内乱、対立と抗争、暴力と犯罪が日常化していった。奴隷制から封建制、資本主義から現代の独占と帝国主義へ、原始共同体が解体された以降、人類社会に戦争のない時代は一度もない。このような対立と抗争、暴力と犯罪、戦争と内乱の原因はみな、経済問題である。つまりは富と財産、土地と領土、金(カネ)をめぐる争いなのであり、根底には人間の欲望の自由放任がある。そこには「見えざる神の手」などひとつもない。まさに「欲望資本主義に憑かれた人間たち」の世界なのである。スミスと自由主義、そのブルジョア経済学、歴史上のすべての宗教も、原始共同体社会が崩壊したあとの人間の歴史を貫く富と財産と土地と領土をめぐる対立と抗争、戦争と内乱、暴力と犯罪を何一つ解決できなかった。「見えざる神の手」などは空想の世界の幻影に過ぎない。永遠の過去から永遠の未来に向かって絶えず運動し、発展し、前進し、転換していく人類の歴史が必ず近い将来この問題をきっぱりと解決するであろう。


資本主義とは何か。資本主義における経済と生産方法について!

封建制の時代、はやくから芽生えていた商品生産と商業ブルジョアジー、手工業と工場制手工業、そして貨幣経済は、一歩一歩近代ブルジョアジーの力を強めていった。こうして封建制の体内で生まれ成長していったブルジョア的生産力は、その発展の度合いに応じて封建制という生産関係と矛盾するようになっていった。そしてこの矛盾はやがて爆発し、ブルジョア革命となり、ブルジョア的、資本主義的生産関係を生み出していったのである。
 資本主義は、人類社会の生産力が発展するにつれ、封建制度が崩壊していくなかから生成していった。そしてやがてまたその生命が終わって、つぎの社会主義に成長転化していくまでの間に、一つの時代を画した社会、経済体制である。これは生産手段と社会の富を支配するブルジョアジー(資本家階級)と、無産階級としてのプロレタリアート(労働者階級)に分裂して対立抗争を内包する社会体制である。
 資本主義とは、人類がたどってきた四番目の社会、経済制度(原始共同体、奴隷制、封建制、そして資本主義制度)である。そこではすべてが商品生産され、商品経済が主となっており、商品でないものはない。そしてその商品を生産するための手段(生産用具、原料、資材、土地、建物、工場)はすべて私有制であり、しかもこれを所有しているのは全人民のなかでは少数でしかない一部の有産階級(ブルジョアジー、資本家)である。そのために、多数を占めているにもかかわらず、財産をもたないプロレタリアート(労働者階級)は、生きていくためには自分の労働(力)を売らねばならない。ゆえに、労働力もまた商品である。資本家階級は労働力を商品として買い入れ、自己の所有する生産手段と結び付けて物としての商品をつくり出す。資本家は、その商品の価値(その商品に費やした労働力の社会的な価値)と、実際に支払った労働者への賃金(労働力の使用価値、その価格)との間の差額を利潤(剰余価値)として手に入れて自己の個人的収入にする。こうして資本家階級は一貫して労働者階級を支配し、収奪し、搾取する。こうして巨大な資本家集団の支配権を維持、拡大させていく。これが資本主義である。
 資本主義の基本的な特徴について最も重要なことは、すべてが商品経済であるところから、人間の労働力までも商品化してしまった、ということにある。生産手段を実力でにぎってしまった。支配階級(ブルジョアジー)は、生産手段にありつけなかった労働者階級から、生きていくためには二本の手しかないその労働者から、労働力(働く能力)を商品として購入し、働かせる。こうして生産手段に労働力を結合させ、商品を生産し、販売する。資本家は一般の商品交換と同じ原則に従って、商品としての労働力を、労働力という商品の価値を、価格として表現した結果、賃金として労働者に支払うのである。この労働力の価値は、労働力の生産費、つまりはその社会水準と文化水準に見合った労働者の生活費の総計なのである。ところがこの労働力という商品は、普通の品物と違って、生きた人間の創造性を保持した特殊な商品なのである。この創造的能力を保持した労働力は、その特殊な使用価値(使うためのねうち)の機能によって、生産された商品に、労働者が受けとった価値(賃金)以上の商品価値をつけ加えるのである。それはちょうど、馬が馬車に荷物を積んで運搬して馬主が得たその代金(運賃)と、そのために馬が馬主からもらって食ったその食糧費との違い、と同じものである。ここでの違いは、馬がものを言えぬ動物であり、人間は人格をもったものが言える社会的人間である、ということだけである。そこで、労働者は資本家から労働力と引き換えに、その生存に必要な、労働力の再生産に必要な労働時間分(労働力の再生産に相当する労働時間分)に対してしか賃金支払いを受けず、それを超える余剰労働時間(生産された商品はその時代の社会的文化水準に応じた商品価値をもっており、その価値と、労働者に支払われた価値の差額分の労働時間)は、不払い労働として資本家により搾取される。資本家は、商品を販売することによってその価値を実現し(貨幣を手に入れ)不払い労働の産物である余剰価値(利潤)をわがものとする。労働者階級を搾取することによって余剰価値をその手にした資本家は、さらに最大限の利潤を求めて、あくなき資本主義的戦場をかけめぐる。こうして弱肉強食の戦野において、巨大な資本はますます強大になり、弱小資本はおしつぶされ、プロレタリアートは永久に支配され、収奪される。ここから階級闘争は必然となり、社会主義への指向は法則的となる。これが資本主義であり、ここに資本主義の最大で基本的な特徴がある。
 さて近代資本主義はイギリスからはじまり、発展していった。島国であるために早くから国内が統一され、外国の侵略や戦場による破壊をまぬがれたこと、学問、知識、が早くから発達したこと、などがそれを可能にした。一六四九年にはブルジョア革命が勝利して立憲君主制となった。やがて一七七〇年代から一八七〇年代にかけてヨーロッパは産業革命をなしとげた。巨大資本は国家権力と結合して国家独占資本主義となり、帝国主義の段階にすすんだ。現在は帝国主義の段階に到達している。
 資本主義の最高の(最後の)段階としての帝国主義は一八九八―一九〇〇年以後に出現した。スペイン=アメリカ戦争(一八九八年)、イギリス=ボーア戦争(一八九八―一九〇二年)、日露戦争(一九〇四―〇五年)、などがこれを規定する歴史的指標となっている。
 帝国主義、それは高度に発展した独占資本主義であり、同時に反動と他民族の支配である。それは銀行資本が産業資本と融合したこと。金融資本の支配が全産業に実現したこと。機械制大工業と近代技術によって生産力は極度に発展してきた。この生産力の発展はすべての生産活動を社会化した。このような発展した生産力の社会化が、生産手段の私的所有という現実の生産関係と矛盾するようになり、そしてついにこれは爆発してしまった。これが第一次世界大戦とロシア革命であり、第二次世界大戦と中国革命であり、現代帝国主義の諸矛盾と民族解放・民主主義革命の高揚である。


資本主義と現代帝国主義の時代における絶対的・相対的貧困化について!

絶対的貧困化とは何か。これは絶対的に、無条件に、人民の生活は悪くなり、人民の生活そのものは、絶対的に、無条件に、やりにくくなる、ということである。
 相対的貧困化とは何か。これは、ある対象と比較して(相手に比べて、人民の生活はブルジョアジーと比べて、労働者は資本主義の発展に比べて)ますます苦しくなり、低くなる、ということである。
 つまりは、労働者階級と人民の生活は、社会の進歩と発展に追いつけず、絶対的に苦しくなり、また同時に、ブルジョアジーや資本家の利益やその豊かさに比べて相対的にも苦しくなる、ということである。これが絶対的貧困化と相対的貧困化の意義であり、定義である。
 ではその具体的内容はどうなのか。労働者階級と人民は独占資本と帝国主義の支配のもとではどのように貧困化させられているのか。貧困化はつまり、現代帝国主義と独占資本主義の全面的な危機ということ、帝国主義とプロレタリア革命の時代ということのなかにある。それはつぎのように定式化されるであろう。
 第一は人民大衆の生活そのものの危機である。
 インフレと物価高。スタグフレーションという名の不況とインフレの同居した生活の困難さ。文化水準の向上、社会生活の向上に個人の収入が追い付かぬ。そこから生まれる生活のひずみ。経済動物、働きバチ、過酷な主婦労働(パート)、サラ金地獄、借金苦、一家離散、夜逃げ、失業、離婚、片親の子供の増大、核家族、財産をめぐる親子・兄弟の殺し合い、自殺、他殺、心中の増大、人間性喪失、家庭の崩壊(昭和57年度警察白書によれば一年間の自殺者は二万一千二百人、三分十二秒に一組が離婚している)。ここに人民大衆の生活の危機、人間生活の危機がある。
 第二は社会的危機である。
 社会的不公平の増大(税金、収入、退職金、再就職、老後、住宅など)。貧富の差の拡大(官と民、大企業と中小企業、都市と農村、知識労働と肉体労働、など)。海には海難、座礁、転覆、でき死、衝突、重油の流出。山には山崩れ、なだれ、地すべり、車の転落、遭難、山火事、荒れた山と自然の破壊、動物類や生物の死滅。街には河川のはんらん、出水、自動車事故、ひき逃げ、あて逃げ、暴走族、スピード事故、追突、炎上事故、ホテル大火災、酔っ払い、おどし、通り魔、ひったくり、スリ、かっぱらい、強姦(かん)、痴漢、放火、覚せい剤の拡大、難病の増大。空には大気汚染と汚れた空気、光化学スモッグ、飛行機事故、各種の落下物、軍事衛星による空の軍事化。そして社会的には各種公害と自然の破壊。精神病と神経病の増大。エロ・グロと退廃文化による人間性の喪失。あらゆる各種の犯罪の出現は安心して一人で歩けぬようになった。暴力はますます少年の年齢を下げ、小学校まで校内暴力を発生させている。非行少年の問題に、もはや活路はない。国連児童基金(ユニセフ)の一九八二年『世界児童白書』によれば毎日四万人の子供が飢えと病に死んでいるという。
 第三は政治的危機である。
 国家財政の赤字。国際収支の不均衡と通貨危機。政治の不安定。腐敗、汚職、買収。自由と民主主義の否定と階級闘争の激化。国際間における通貨戦争と貿易戦争。原料資源をめぐる争奪。市場と植民地をめぐる対立と抗争。民族運動の高まりと独占間、帝国主義間の対立と紛争。テロ、ゲリラ、内乱、などである。人種暴動は世界各地の至るところで発生し、貧困と飢えにさ迷う流民は世界的な規模となっている。アフリカにおける難民は五〇万、飢饉による餓死者は一九七〇年は三〇万人に達したが、一九八〇年代はそれよりも酷くなるだろうとニューヨーク・タイムス(一九八三年六月七日付)は報じている。
 今世界各地で地球の砂漠化が急速に進んでいる。統計によれば毎年数百万ヘクタール(四国と九州ぐらい)の面積が砂漠になっており「西暦二〇〇〇年には砂漠が二〇%拡大し、開発可能な森林は途上国から消滅するだろう」(カーター政権時代の米国務省報告)という。また石油危機と環境破壊を背景に大気中の炭酸ガス増加による異常気象が現代の世界を覆っている。そのため、森を枯らし、湖の魚を死滅させる酸性雨にどう対処するか、一九八三年六月にカナダのトロント市で開かれた「第一回地球会議」に世界二〇ヵ国の民間団体代表五〇〇人近くが集まり全世界に警告した。酸性雨は昭和四十八年から五十年にかけて関東地方に降って三万人の人びとに目や皮膚の痛みを伴う被害を与えた。ヨーロッパではドイツ、フランスにたびたび被害を与えた。スウェーデンの森林の生長は七%低下し、スイス・アルプスの美しい森も酸性雨で死滅しつつある。アメリカ北部にある湖からは魚が次々に消え、ノルウェーの川には遂にサケが姿を見せなくなってしまった。
 これが現代の貧困化であり、ここに独占支配と帝国主義の時代における絶対的・相対的貧困化がある。このような人民生活の危機はかつてなかったことであり、すべては現代独占資本と帝国主義の政治的産物である。
 そしてまた、この世の価値を生み出す生産労働者、この世の主人公である労働者階級はどうか。労働者階級をつつむ労働条件はますます悪化しているのである。決してよくなってはいないのである。近代資本主義は急速に発展し、帝国主義の段階に到達する。それにつれて社会の文化水準と生活環境は急速に進歩し、生活様式も進歩する。だが、労働者の生活実態はそれに追いつくため、前よりもいっそう強く働かねばならず(労働の密度の強化)、前よりもいっそう多く働かねばならず(労働時間の延長、夫婦共稼ぎ)、前よりもいっそう高く働かねばならず(高度の知識と学歴の必要性)、前よりもいっそう真剣に働かねばならない(神経のすり減らし)。それでも現実の社会の文化水準と生活環境の変化、進歩と向上に追いつけないのである。これが現在の絶対的貧困化である。そして一方では、独占資本と大ブルジョアジーの生産設備、大工場、大ビルディング、ブルジョア施設はますます広大になり、ますます強大になり、ますます華麗になり、ますます豪華になる。それに比べて労働者階級と人民の生活実態、その衣・食・住はわずかばかりの変化と進歩で我慢しなければならない。その格差はますます拡大するばかりである。
 電機労連(堅山利文委員長、五十七万四千人)は一九八三年七月七日、ロボットやマイコンなどによるマイクロエレクトロニクス(ME)化が、現実の職場の労働者に、どのような影響を与えているかについての、実態調査の結果を発表、石川県金沢市で開かれていた同労連の一九八三年定期大会に報告した。それによると、電機産業ではすでに九三%の事業所でME機器を導入している。このうち約六〇%の事業所では従業員が大きく減っている。その結果全従業員三十七万人のうちME化によって少なくとも五万人(一三%)が失業している。ME化した職場から追われたのは女子や中高年労働者がほとんどである。従業員が減少した結果、ME職場で起きている日常作業上の問題では「仕事に比べて要員が少ない」と切実に訴える組合員は男子で八〇%、女子で七三%。「有給休暇が十分に取れない」、「残業が多い」と労働強化を訴える人が五〇―六〇%を占めている。またME化の進行で職場には各種の計器類が増え、作業は単調になりがちである。このために健康面では精神的緊張感や疲労が四、五年前よりも「増えた」という労働者が三人に二人の六六%に達していることが明らかになった。具体的症状としても「首、背中、肩が凝る」六六%、「目が疲れる」六五%、などこの面の労働特有の健康障害が目立つ。結局は、ME化は、労働軽減には結びつかず、むしろ残業が増え、労働時間が長くなり、労働の密度が高まり、疲労が高まっている、という結論を得た。これが独占資本と帝国主義の支配下の機械化、近代化のもとにおける労働者の実態である。
 これが近代化がすすみ、文化がすすみ、科学と技術がすすむ現代の労働者がおかれている実際の姿であり、ここに現代の貧困化がある。
 これが絶対的貧困化と相対的貧困化の現代の姿であり、実情である。ここに独占資本と現代帝国主義の時代における貧困化がある。

 マルクスは『資本論』のための基礎理論を展開した有名な著作『賃金、価格、利潤』におけるその結論で次のように言っている。「資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均水準を高めるものではなくて、低めるものである」と。すなわち、マルクスは明確にその〝絶対的〟貧困化の法則をここでズバリとこのように言い表している。
 さらにマルクスは『資本論』第一巻のなかで「資本が蓄積されるにつれて労働者の状態は、彼らのうける支払いがどうであろうと、高かろうと低かろうと、悪化せざるを得ないのである」と主張している。すなわちここでもマルクスは、労働者の受け取る賃金が相対的に高かろうと低かろうと、生活は絶対的にやりにくくなるのだと言うことを右のように正しくも表現しているのである。
 その上でマルクスは、さらに理論を展開して次のように言う。「たとえ労働者の絶対的な生活水準はいぜんとして同じでも、彼の相対的賃金、したがってまた資本家の社会的地位と比較した彼の相対的な社会的地位は下がったことになる」(『賃金、価格、利潤』)。「一方の極での富の蓄積は、その対極ではすなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側では、同時に、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野生化、および道徳的堕落の蓄積である」と。すなわちマルクスは右のように、ブルジョアジーの富の増大に比較して、すなわち〝相対的〟にも労働者階級は貧困化するものであることを明確にしている。
 マルクスの理論の正当性を引き継いでレーニンもまた労働者階級の貧困化について正しい結論を展開している。すなわち、一九一二年に執筆した論文『資本主義社会における貧困化』の中で彼は次のように言っている。まずレーニンは「ドイツでは、文化水準がより高いおかげで、ストライキと結社の自由のおかげで、また、政治的自由、数百万人の労働組合員、数百万人の労働者新聞の読者のおかげで、労働者の地位はロシアよりも比べものにならないほど勝っている」としてドイツがロシアよりも〝相対的〟に言って生活水準は高いと主張したあと、次のように言う。「ドイツでは労働者の賃金は最近三十年間に平均二五%増大した。同時期に生活費は少なくとも四〇%上がった。食料品も、衣服も、燃料も、住居も―みな値上がりした。労働者は絶対的に貧しくなっていく」と。すなわちレーニンは、ロシアよりも〝相対的〟に高いドイツの労働者も、そしていくら名目賃金が上がっても、社会環境そのものによって労働者は〝絶対的〟に貧困化していくことを明確に主張しているのである。これが理論上における貧困化の根拠である。


現代資本主義は頂点に達し、老いてしまい、ただ利ざやだけを追い求めて動く金融資本主義が暴れまわっている。もう未来はない。故に「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫)に達したのである!

二〇一六年五月十二日付日本経済新聞に東レ社長の日覺昭広氏が次の一文を「私見卓見」欄に発表している。「国内の経営環境は米国の金融資本主義の影響を受けすぎていて危機感を感じる」と。そして本来金融とは物々交換のための手段であった金融(貨幣)がついに主流になってしまい、実体経済をも支配する時代になった。お金で景気を何とかしようという風潮は邪道だと現状を批判している。これは正しい。だがこの問題の本質はアメリカが悪いのではなく、現代資本主義がついにここまで上り詰めた、というのであって、資本主義の法則なのである。つまり、現代資本主義は頂点に達し、老いてしまい、ただ利ざやだけを追い求めて動く金融資本主義がグローバル時代の波に乗って世界中を荒らしまわっているのである。こうして資本主義の転換を歴史が求め、いたるところで、あらゆる爆発を引き起こしている。東レの日覺社長の見解は経済界の総意であると同時に、これは、資本主義の本質なのである。
 資本主義、その最高の段階たる金融独占資本主義の時代は、アダム・スミスの古典経済学が教えるとおり、それは人間欲望の自由放任主義であり、まさに「欲望資本主義に憑かれた人間たち、モラルなき利益至上主義に蝕まれた世界」なのである。そこから生まれてくるのが格差社会、非正規雇用、派遣社員、パート社員、ネットカフェ難民、ホームレス、働く貧困層(ワーキングプア)、無差別殺人、理由なき犯罪、暴走する人間の欲望、など以前には考えられなかった各種の凶悪犯罪が出現する。これらはすべて、現代資本主義、独占資本主義、その国家と権力の拝金主義支配が生み出す毒素である。それは本質的に、現代独占資本の国家と権力支配への反抗であり、一種の闘いであり、矛盾の爆発である。
 現代資本主義世界を引っかき回している金融資本主義の本質を鋭く論評した二人の著名な知識人の論評を見よ。ここに現代世界の本質がある。

 堺屋太一氏の論評
 二〇〇七年夏ごろから始まったアメリカの金融危機、二〇〇八年九月に発生したリーマン・ショック(アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズ社の倒産)、このアメリカの金融危機が全世界を大混乱に陥れた。その危機を作り出した原因はアメリカのサブプライム・ローンの破綻であった。そこで、ではサブプライム・ローンとは何か、ということについて堺屋太一氏は明確に答えている。
 通産省の元高級官僚で国務大臣を務め、現代は作家であり、ジャーナリストの堺屋太一氏は『中央公論』二〇〇八年十二月号で「サブプライム・ローンとはノーベル賞級の詐欺である」と喝破している。堺屋氏のいうとおり、それは誠に複雑怪奇な仕組みで大衆を収奪する強欲な制度である。政府が背後で保証し、信用の低い大衆の個人的欲望に付け込んで住宅ローンを組ませる。そのとき、直接大衆と接触するのは仲介業者(ブローカー)である。彼らはあの手、この手を使って顧客を獲得する。その人が果たしてローンを返済できるのかどうかは関係ない。彼らの収入はそのマージンであるからひたすら数をこなすのが目的で、自分の儲けが第一なのだ。銀行・金融機関もどんどん貸し出していく。やがて訪れるそのリスクに備えて貸し付け証書を証券(株券)にして世界中に売りさばく。これを買う金融機関や業者たちは、アメリカ政府が保証しているから信用してしまう。そしてアメリカ経済の困難によっていよいよローンが破綻するに至ったとき、アメリカ自身の金融機関は、政府による「公的資金」の投入によって救済される。公的資金とは国民の税金である。救済された金融機関の役員たちは数十億円の報酬や、数百億円の退職金を得て涼しい顔である。堺屋太一氏が「ノーベル賞級の詐欺」だというのはこのことである。これはまさに「金融寡頭支配」の産物そのものである。

 ポール・ケネディ氏の論評
 世界資本主義は十八世紀の産業革命、十九世紀の独占資本主義から帝国主義へ。これは産業独占から金融独占への転化であり、すべては金融支配、金融寡頭支配への移行であり、すべてはカネが支配するに至った。そして当然世界は一つになり、経済的に単独で、一国だけでは成り立たなくなった。グローバル(世界的・国際的)な世界なのである。
 このことの本質について、ポール・ケネディ(イギリスの著名な歴史学者で、その主著『大国の興亡』は世界的なベストセラーになった)は、二〇一一年七月十日付読売新聞に『地球を読む』という欄でつぎのように書いている。「ドル支配の時代は終わりに近づいている……問題は、米国の信用が疑われていることだ。……大きな勝者は投資家たちだろう。今日の国境なき世界において、彼らは国家的な忠誠心を持たず、一日中、利ざやを求めて動く。彼らは商品市場のあらゆる理性を破壊した。銅の先物買いをするのは、銅線を作るためではなく、翌日売って15%の利益を得るためだ。どこかの国の通貨を、破綻に追い込むほど売り買いすることもできる。遊べる準備通貨が三つもあれば、彼らは大喜びするだろう。……なぜなら……世界を動かしているのは、まさに通貨だからである」と。
 このポール・ケネディの一言は、みごとに現代資本主義の本質、金融独占資本主義の本質、現代資本主義崩壊の必然性を明確にしている。


「資本主義の終焉」を説く水野和夫氏の論旨をよく知ろう。経済的法則から資本主義の終焉を予告しているのである!

 水野和夫(日本大学国際関係学部教授)著、集英社刊『資本主義の終焉と歴史の危機』は、〔一六世紀以来、世界を規定してきた資本主義というシステムがついに終焉に向かい、混沌をきわめていく「歴史の危機」。世界経済だけでなく、国民国家をも解体させる大転換期に我々は立っている〕と。
 こういう大胆で明快な言葉で述べる氏の論旨はなにか。その核心部分をここに紹介する。氏の論旨の核心はつぎの諸点である。
 ▽資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステムです。「アメリカのグローバリゼーションが叫ばれている現代、地理的な市場拡大は最終局面に入っていると言っていいでしょう。もう地理的なフロンティアは残っていません。また金融・資本市場を見ても、各国の証券取引所は株式の高速取引化を進め、百万分の一秒、あるいは一億分の一秒で取引ができるようなシステム投資をして競争をしています。このことは、「電子・金融空間」のなかでも、時間を切り刻み、一億分の一秒単位で投資しなければ利潤をあげることができないことを示しているのです。つまり、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなってきているのです。資本主義を資本が自己増殖するプロセスであると捉えればそのプロセスである資本主義が終わりに近づきつつあることがわかります。
 ▽もう資本主義というシステムは老朽化して、賞味期限が切れかかっています。しかも、二一世紀のグローバリゼーションによって、これまで先進国が享受してきた豊かさを新興国も追い求めるようになりました。そうなれば、地球上の資本が国家を見捨て、高い利潤を求めて新興国と「電子・金融空間」を駆け巡ります。その結果、国民経済は崩壊して、先進国のみならず新興国においてもグローバル、エリートと称される一部の特権階級だけが富を独占することになるはずです。
 ▽資本主義の終わりの始まり。この「歴史の危機」から目をそらし、対症療法に過ぎない政策を打ち続ける国は、この先、大きな痛手を負うはずです。
 ▽もはや近代資本主義の土俵のうえで、覇権交替があるとは考えられません。つぎの覇権は、資本主義とは異なるシステムを構築した国が握ることになります。
 以上である。これが水野氏の論旨である。誠に大胆で明快である。われわれはこの論旨を評価し、賛成し、支持する。


哲学・歴史科学の法則は、資本主義崩壊は必然であり、その後は人民の世界であり、コミュニティー共同体から社会主義への道であることを示している。これは科学的法則である!
     ―コミュニティー共同体とは何か―

人類の歴史はそのエネルギー(生産力)によって一貫して運動し、前進し、発展し、転換(変革)されてきた!

 エンゲルスは『自然弁証法』(1875年)によって宇宙と万物を支配するエネルギーの運動法則の産物としての現代世界のあり方を解明した。
 マルクスはその著作『経済学批判・序論』(1859年)によって人類世界の歴史と未来展望について哲学・歴史科学的に解明した。哲学歴史科学観の核心はつぎの点にある。
 ① 人類の歴史とその社会(国家と社会制度)のあり方を決定するのはエネルギーとしての生産力である。「生産力が生産関係を決定する」。つまり、経済力が生産関係たる国家と社会のあり方を規定していく、ということである。生産力とは人間の労働能力だ。
 ② 生産力は常に前進し、発展していく。一ケ所で止まった時代は一つもない。これにもとづいて国家と社会も常に変化していった。原始時代―古代―中世―近世―そして現代という歴史過程を見ればはっきりしている。
 ③ 歴史は常に運動し、前進し、発展し、転換していくのであって一ケ所に止まっているわけではない。現代資本主義はつぎの時代たるコミュニティー共同体から社会主義へと移行せざるを得ない。これは哲学歴史科学が進む必然の道である。
 ④ 哲学・歴史科学の運動法則が現在求めているのは、最大限の利益追求第一主義・物質万能主義と拝金主義・自由競争という名の弱肉強食・非人間的格差社会、という現代資本主義の否定である。
 そして人民の人民による人民のための世界・共同生産・共同分配・協力・共同・連帯の人間社会・大自然と共に生きる豊かな人間生活の実現を求めているのである。
 ⑤ 現代資本主義は独占と帝国主義の時代、最高度の段階に到達し、登り詰めてしまった。エネルギーの運動法則から転換せざるを得ない。これで人類の前史は終わり、新しい歴史時代に移行する。
 ⑥ この人類の後半たる新しい歴史時代とは何かについてエンゲルスは『自然弁証法』で明言している。「人類は挙げて大宇宙との闘いに進軍する」と。
 そしてマルクスの学説の正しさは、歴史そのものが、事実で証明しているのである。


コミュニティーとは何か!

▼ 哲学・歴史科学の運動法則が現在求めているのは、最大限の利益追求第一主義・物質万能主義と拝金主義・自由競争という名の弱肉強食・非人間的格差社会、という現代資本主義を否定する。
 そして人民の人民による人民のための世界・共同生産・共同分配・協力・共同・連帯の人間社会・大自然と共に生きる豊かな人間生活の実現、である。
 ▼ コミュニティー、人民による人民のための人民の世界。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ。
 ▼ 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む。
 ▼ 人類とその社会は生まれたときから環境の産物であり、歴史的なものであった。環境が変われば人類とその社会も変わる。国家と権力が変われば人類社会は変わる。
 ▼ そのための力こそ、すべてを人民のための・人民による・人民の政治と権力であり、その具体的表現たる人民評議会である。ここに本当の民主主義がある。
 ▼ 人類が最初にはじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティー国家と社会へ。ここから本当の人間社会、人民の社会が生まれる。こうして人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するであろう。


結  語

われわれの未来展望とそのスローガン

われわれはすべてを哲学・歴史科学的世界観に徹するよう呼びかける。われわれは一貫して次のような哲学・科学的世界観、歴史科学観を提起する。
 ① 人類とその社会は永遠の過去から永遠の未来に向かって運動し、発展し、爆発し、収れんされつつ前進していく。そのエネルギーは人間の生きる力であり、その物質的表現としての生産力である。
 ② 生産力の発展がその度合いに応じて生産関係としての人類社会(国家)を作り出していった。それは最初の原始共同体、次の奴隷制、封建制、資本主義制、そして社会主義へと一貫して生産力の発展が生産関係(国家)を変化させていった。これからもそうなる。
 ③ 物理学が証明しているとおり、すべての生物は環境が作り出していく。人類もまた環境の産物であり、進化していった。環境が人間を変えていく。新しい環境と新しい社会は新しい型の人間を作り出していく。
 ④ 人類の歴史を見ればわかるとおり、一つの支配権力、一つの国家形態が永遠であったことは一度もない。歴史は常に運動し、変化し、発展し、転換して次々と新しい時代を作り出していった。そして歴史を見ればわかるとおり、変化は静かで一直線ではない。爆発と収れんは歴史法則である。歴史は必然を持って前を目指すが、その過程では常に偶然が伴う。偶然は必然のための産物であり、偶然は必然のための糧である。そして必然の世界とは人民の人民による人民のための世界であり、より高度に発展したコミュニティー社会である。歴史は到達すべきところに必ず到達する。
 ⑤ コミュニティーとは何か。人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ。
 ⑥ 生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする。
 ⑦ 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む。
 ⑧ 人類とその社会は生まれたときから環境の産物であり、歴史的なものであった。環境が変われば人類とその社会も変わる。国家と権力が変われば人類社会は変わる。
 ⑨ そのための力こそ、すべてを人民のための・人民による・人民の政治と権力であり、その具体的表現たる人民評議会である。ここに本当の民主主義がある。
 ⑩ 人類が最初にはじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティー国家と社会へ。ここから本当の人間社会、人民の社会が生まれる。こうして人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するであろう。