2024年7月25日 №539

2024年7月25日 №539

〈われわれの「7・15記念」について〉


 日本共産党創立の歴史的意義、マルクス主義の原理原則をあくまで堅持する。われわれはマルクス主義復興の旗手であり、レーニン主義的(ボリシェビキ的)党建設の推進者である!

 

現代資本主義は崩壊し、コミュニティ共同体から社会主義へ向かっている。ここに現代の歴史時代がある。マルクス主義の復興は歴史の必然である。

 

2024年7月集会の基調報告

日本共産党(行動派)中央委員会

                              議長   森   久

 

 同志の皆さん、幹部と活動家の皆さん、7月集会に当たり、日頃のご健闘に心からの敬意を表します。

 われわれにとって7月15日は、日本共産党の偉大な創立記念日であり、行動派党の再建記念日であり、大武礼一郎名誉議長の『新・共産党宣言』発表記念日であります。

 2024年、今年の7月集会を取り巻く、現代の歴史時代とは何か。現代は、独占資本主義と帝国主義の時代であり、これが行き詰まり、崩壊し、次の時代たるコミュニティ共同体から社会主義へと移行せんとする歴史時代であります。

  それを最も象徴する最近の第一の事実は、69日に投票が終了し、開票された欧州議会選挙における「右派の急伸・拡大」です。これは日本の新聞がみな大きな見出しで伝えた通りです。事の本質は現代資本主義の危機が生み出す自国第一主義、右翼民族主義の爆発です。中でも衝撃を与えたのはフランスの結果で、極右の流れをくむ右派「国民連合」(党首・ルペン)が得票率31%を獲得し、マクロン率いる与党連合を2倍以上引き離して第1党を確実にしたことです。マクロン大統領は衝撃を受け、直ちに国民議会を解散するという賭けに打って出ました。勿論、この右派伸長はドイツでも、オーストリアでも、イタリアでも、ベルギーでも全く同じであります。その根底には、物価高騰、不法移民・難民の急増、強力な「環境規制」がもたらした経済停滞、それ等によって深まった生活苦・生活不安があり、「エスタブリッシュメント」が支配するEU当局に対する根強い不満があったのです。

 このような自国第一の右翼民族主義は戦争の元凶であり、このような民族主義の高まりは今後ヨーロッパの至るところに「戦争の危機」を生み出していくでしょう。EUを離脱したイギリスでも兵役強化の声が高まっています。ウクライナ戦争は今や欧州を巻き込み、現代資本主義を土台から揺さぶる政治的危機を引き起こしていく。資本主義は戦争によって破綻する。

 第2の事実は、613日にイタリアで開催されたG7の惨めな姿です。ここに現代資本主義の危機があります。メローニ率いる「イタリアの同胞」は独裁者・ムッソリーニの流れを汲む党で、先の欧州議会選で大勝を博し、彼女はこれを追い風に、移民規制の強化を強く主張しました。これに対し、他のG6国はみな深刻な内政問題を抱えており、足元はぐらつき、サミットどころでなかったのです。アメリカ・バイデン大統領は11月の大統領選で依然として支持率でトランプにリードを許しており、フランスは先の通りであり、ドイツ・シュルツ首相も先の欧州議会選で与党「社会民主党」が大敗し、党内の求心力を失っており、カナダ・トルドー首相はインフレで支持率を下げ、首相辞任の憶測が飛び交い、イギリス・スナク首相は支持率大低落のまま74日総選挙に追い込まれ、政権交代が確実視されています。このように、G7政権は、軒並み足元がぐらついており、現代資本主義の崩壊を物語っています。

そうした現代世界の中で、日本の岸田政権も同じです。現代資本主義はもはや従来のやり方では支配できなくなっています。まさに革命的情勢であります。自民党や岸田首相は首都・東京の知事選にさえ与党候補を出すこともできず、解散総選挙もできない始末です。党内や地方からの突き上げ、つまりは人民大衆や国民の強い批判にさらされています。

革命的情勢の到来と、革命そのものの到来は別問題であります。革命は歴史が生み出す。やって来た革命を如何に現実に転化するかです。すべては内因が決定する。

 今こそ「60年安保闘争」の再現が求められています。「60年安保」では、労働者階級と人民、中間層もふくめたもっとも広範な人民が統一して闘い、一大政治デモを全国にまきおこしました。とくに決定的な時機には政治デモが連日国会を包囲し、首都東京は街頭政治デモでうずまり「内乱状態」となったのです。このような人民の「蜂起」と「内乱状態」が、岸信介首相の自衛隊出動の強い要請にもかかわらず、自衛隊を出動させなかった。 それは、人民の「蜂起」と「内乱状態」に対して、ブルジョア支配に動揺が生まれ、支配階級内部で対立が発生していったからであります。人民の蜂起こそ唯一の正しい階級闘争であることを立証した。

 「60年安保闘争」における最大の裏切り者は、日本共産党(宮本修正主義)でした。特に東大の学生、

樺美智子さんが死亡した「虐殺の六月十五日」の冒とくは断じて許せない。60年安保闘争の内部を常に分裂させたのは宮本一派であった。真の階級的前衛党を建設せよ。ここに革命を勝利させる決定的要因があります。

故に、われわれは毎年、7月15日、7月集会を開催し、マルクス主義の原理原則を守り抜き、革命的前衛党の純潔を守り抜くことを固く誓っているのであります。

 

次が行動派党の歴史と教訓であります。

革命は歴史が生み出す。やって来た革命を如何に現実に転化するかです。すべては内因が決定する。

 今こそ「60年安保闘争」の再現が求められています。「60年安保」では、労働者階級と人民、中間層もふくめたもっとも広範な人民が統一して闘い、一大政治デモを全国にまきおこしました。とくに決定的な時機には政治デモが連日国会を包囲し、首都東京は街頭政治デモでうずまり「内乱状態」となったのです。このような人民の「蜂起」と「内乱状態」が、岸信介首相の自衛隊出動の強い要請にもかかわらず、自衛隊を出動させなかった。 それは、人民の「蜂起」と「内乱状態」に対して、ブルジョア支配に動揺が生まれ、支配階級内部で対立が発生していったからであります。人民の蜂起こそ唯一の正しい階級闘争であることを立証した。

 「60年安保闘争」における最大の裏切り者は、日本共産党(宮本修正主義)でした。特に東大の学生、

樺美智子さんが死亡した「虐殺の六月十五日」の冒とくは断じて許せない。60年安保闘争の内部を常に分裂させたのは宮本一派であった。真の階級的前衛党を建設せよ。ここに革命を勝利させる決定的要因があります。

故に、われわれは毎年、7月15日、7月集会を開催し、マルクス主義の原理原則を守り抜き、革命的前衛党の純潔を守り抜くことを固く誓っているのであります。

次が行動派党の歴史と教訓であります。

 

日本共産党創立の歴史的事実とその意義!

 

帝国主義段階に達した二十世紀世界資本主義の最初の矛盾の大爆発は一九一四年の第一次世界大戦でした。そしてその結果は、帝国主義戦線の弱い一環はロシアに現われ、ロシア十月社会主義革命となって、世界で最初の社会主義国家・プロレタリア独裁の国家を生み出しました。人類はここにはじめてまったく新しい社会主義制度、人類が体験した五番目の社会制度を創造したのであります。これがマルクス主義の偉大な勝利であり、マルクス主義のロシアにおける実現でした。これを指導したのは、ロシア共産党(ボリシェビキ)であり、レーニンでした。レーニン主義は帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義となったのであります。

 同時にそのことは、ロシア革命を勝利させたボリシェビキの党、革命的マルクス主義の党、レーニン主義の党を至急に各国で結成させるべき必要性と歴史的任務が、各国のプロレタリアートの頭上に課せられていったのであります。そして、このような党の結成を援助し、指導すべき国際プロレタリアートの革命組織、共産主義インタナショナル(第三インタナショナル=コミンテルン)は、レーニンの指導によって一九一九年三月、モスクワに創立されました。こうして世界各国の革命的労働者は続々モスクワに集まり、ロシア革命とレーニンに学び、それぞれの国における革命党の創立に取り組んでいったのであります。

 

 日本共産党(行動派)歴史年表

 

 ▼一九一九年三月二日―六日

  コミンテルン結成大会開催

 

 全世界の共産主義政党と組織の代表はこの日モスクワに集まり、共産主義インタナショナル(第三インタナショナル―コミンテルン)の創立大会を開いた。

 これはロシアにおける十月社会主義革命を勝利させたレーニンの直接の指導のもとに、プロレタリア国際主義の結晶、共産主義党の国際的統一体として創設されたものである。

 

 ▼一九二二年一月二十一日―二月二日

  『極東民族大会』開催さる

 

 コミンテルンの組織活動の一つとして、さらには極東の各国に共産主義的プロレタリア前衛党の結成を準備する目的で『極東の共産主義的・革命的組織の第一回大会』(極東民族大会)がモスクワで開催されたのである。

 この会議には日本からも徳田球一をはじめ各種の色あいの共産主義、社会主義団体と組織(革命的共産主義者、社会民主主義者、無政府主義者、そして片山潜とアメリカ在住日本人共産主義者)から十六人が出席した。 

 片山潜は日本共産主義者の代表として議長団に選ばれ、大会でも日本代表団長として一般報告を行った。

 

 その後片山潜はひきつづきコミンテルンに常駐し、一九二二年十一月に開かれたコミンテルン第四回大会ではその執行委員会幹部会委員に選出された。

  

 ▼一九二二年七月十五日 

  日本共産党創立さる

 

 『極東の共産主義的・革命的組織の第一回大会』の決議は徳田球一らによって日本にもたらされ、それにもとづいてはじめて日本共産党が創立されたのである。

 

 この日、大会は東京渋谷・伊達町のある民家の二階で開かれ、党創立の確認と規約を承認、当面の活動方針を決定し、堺利彦・山川均・荒畑勝三・高津正道・橋浦時雄・吉川守国、そして徳田球一の七人による中央委員会が選出され、委員長には堺利彦が就任した。

 

  ▼一九二四年三月 

  日本共産党に解党主義発生 

 

 日本共産党が創立され、本格的な活動を開始してまもなく、一九二三年六月五日、天皇制政府はまだ若いこの党にいっせい弾圧を加え、主な幹部を全員逮捕し投獄した(第一次共産党弾圧)。

 つづいて同年九月一日に発生した関東大震災にまぎれて、九月

 




四日には南葛労働会の活動家で青年共産主義者の川合義虎、平沢計七ら九人を亀戸署で軍隊による殺害をおこない(亀戸事件)、九月十六日には憲兵大尉甘粕正彦が無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝らを大手町憲兵隊に連行し殺害(甘粕事件)、またこの間に朝鮮人労働者を惨殺するなど、一連の暴圧を行った。

  その結果、まずそのいちばん弱い〝環〟、すなわち党内小ブルジョアジーが権力への恐怖と思想上の動揺をひきおこし、これが解党主義となって出現したのである。

    山川均に代表されるこの思想は、日本にはまだ共産党の結成は早すぎるから、ひとまず党を解散して時が来るのを待とう、というもので典型的な右翼日和見主義・敗北主義・自然成長主義であった。 

 山川均の解党論を積極的に支持したのは野坂参三であった。山川均、赤松克麿、猪俣津南雄、田所輝明らが集まり、獄中にいた堺利彦の支持と承認のもとに、党幹部の名によって日本共産党の解党決議を発表した。 

 これに対し、徳田球一・渡辺政之輔・市川正一を中心にした革命的な人びと、そして荒畑勝三らの良心派は断固としてこのような解党決議に反対、ただちに党を革命的に再組織する闘いにとりくんだ。 

 だが解党決議に反対する側の内部にも二つの異なった思想的潮流が出現した。すなわち解党派の残りカスを身につけた党内小ブルジョア派としての〝提唱派〟(彼らは党活動の重点を宣伝と教育活動におき、まず党員を大量に増やすことが先決である、と主張する)であり、一方にはプロレタリア革命派としての〝行動派〟(彼らは提唱派の考えと思想に断固反対し、党はなによりもまず大衆闘争を土台とし、大衆を組織し、具体的に、徹底的に現実の階級闘争にとり組むべきである。この階級闘争という烈火のなかでこそ真の党が建設され、革命の条件も形成されていく、と主張する)であった。 

 〝行動派〟の中心には徳田球一・渡辺政之輔・市川正一らがすわった。 

 これがこの当時に発生した二つの潮流であり、この二つの潮流は以後引き続き党内に存続していく。 

 

 ▼一九二四年六月十七日―七月八日 

  コミンテルン第五回大会と日本共産党の再組織 

 

 この日、コミンテルン第五回大会がモスクワで開催され、これには日本共産党代表として片山潜、徳田球一らが出席した。 

 大会は日本問題小委員会を開き、日本共産党の解党を認めず、直ちに党を再組織することを決議した。 

 

 ▼一九二五年一月 

  〝上海テーゼ〟にもとづいて徳田球一は党を再組織す 

 

 コミンテルン第五回大会の決議にもとづき、上海でコミンテルン代表と日本共産党代表の徳田球一・渡辺政之輔らが会合、日本共産党を再組織するための政治方針即ち〝上海テーゼ〟を確立した。 

 徳田球一・渡辺政之輔らは〝上海テーゼ〟(一月テーゼともいう)をもって帰国、ただちに日本共産党中央委員会を再組織し、全党の再組織にとりかかった。 

 このとき再組織された党の中央委員会書記長には徳田球一が就任、組織部長も兼務して、再組織された党を一身に背負って立った。 

 こうして、このときから日本共産党の中央にはじめてプロレタリア革命派(当時の行動派)の指導権が樹立され、以後、徳田球一が死亡するまで党は一貫してプロレタリア革命派によって指導されたのである。 

 

 ▼一九二七年七月十五日 

  『二七年綱領』の獲得 

 

 コミンテルンの日本委員会がこの日モスクワで開催された。 

 この委員会には日本共産党の代表として片山潜・徳田球一・渡辺政之輔ら、解党派と闘って党を再組織した革命派の幹部が中心になって出席した。 

 コミンテルン日本委員会は全員一致して、新しい日本共産党と日本革命の綱領、すなわち『二七年綱領』を採択した。 

 徳田、渡辺らはこの綱領をもって帰国。十二月二日拡大中央委員会を開催。渡辺政之輔が書記長に就任。党の再組織と工場細胞の建設に向かって前進する。 

 

 ▼一九二八年三月十五日と一九二九年四月十六日『三・一五事件』と『四・一六事件』の大弾圧下る 

 

 日本共産党の歴史上、天皇制政府による日本の革命的プロレタリアートに対する最大の弾圧として『三・一五』『四・一六』の二つの大弾圧が下された。この二つの大きな弾圧によって日本共産党の中央・地方の幹部と活動家は根こそぎ逮捕された。とくに徳田球一、市川正一らを中心にしたプロレタリア革命派とその中央は全員逮捕・投獄され、渡辺政之輔は国外から帰国途中の台湾で官憲に包囲、殺害された。 

 このため、以後の日本共産党はプロレタリア革命派とその中央の指導部なしで、それぞれの共産主義者が独自に、あるいは小グループをつくって、分散した闘争をくりかえすといった困難な状態におちいってしまった。

 こうした当時の困難な事情と、分散した党活動が一種の無政府

 


産党のフルシチョフ修正主義の支援のもと、徳田球一の否定と、日本における修正主義の道を開く、そのための「六全協」でした。

 日本共産党の第六回全国協議会(六全協)では、いったんは党外に追放され、いったんは徳田球一の前に自己批判した宮本一派が、この機会に党復帰し、ついに党中央の実権を握るに至ったのですが、この「六全協」はまったく日本共産党の全党の意志でやられたのではなかったのです。それはフルシチョフ修正主義が出現したソ連共産党(スターリンなきソ連の党)と、徳田球一亡き後の野坂参三ら党内小ブルジョア派が合作した代物でした。党内のプロレタリア革命派はこれに批判的であり、これを承認しなかったのであります。

 徳田球一とプロレタリア革命派の指導下に闘った多くのプロレタリア幹部は、党の革命的伝統を守るため、断固として『六全協』に反対しました。しかしそのほとんどは党の指導機関から排除され、弾圧されました。大武礼一郎もまた、当時党関西地方委員会の幹部として『六全協』に反対しましたが、あとで指導機関から排除されてしまいました。そのため大武同志は生産点と職場に深くはいり、下から、大衆闘争のなかから宮本―志賀ラインに対する闘争を開始したのであります。

 一九五八年七月二十一日―八月一日、日本共産党第七回大会開催。この大会は宮本―志賀ラインの右翼日和見主義の全党支配が完成するかどうかという、党にとって歴史上の分岐点ともなった大会でした。

大武礼一郎は党内部における最後の闘いとして、指導機関の推薦を受けることなく大会代議員に立候補し当選、第七回大会に出席しました。

 大武礼一郎は大会議長団に『五〇年問題』に関する文書を提出、宮本―志賀ラインの『国際派』こそ分派であり、彼らは完全な右翼日和見主義であると非難、大会がこの問題を討論するよう求めました。

 宮本―志賀ラインの議長団はこの文書を排除、そのまま五〇年問題委員会の名によって大武同志に送りかえしてきました。

 かくしてこの大会は完全に宮本路線が支配し、以後党指導機関は右翼日和見主義によってぬりつぶされ、〝行動派〟の伝統、プロレタリア革命派の伝統をうけつぐ幹部は中央から、各指導機関から一掃されていったのであります。

 第七回大会の結果を検討した大武礼一郎は、宮本路線は明確な修正主義であり、いまや完全に全党を支配した。したがって彼らと闘争し、党を再建するという仕事は、長期にわたる日本革命と日本の階級闘争における基本的任務になったのだという結論に達しました。

 そのため大武礼一郎は現実の人民闘争と階級闘争にとりくみつつ、このなかから新たなプロレタリア革命派を結集し、真のプロレタリア革命派幹部を形成する以外にないと考え、その作業にとりかかったのであります。

 同時に大武礼一郎は工場と生産点に偉大な根拠地を築くべく、一九六一年の末、自ら工場のなかにはいり、労働運動にとりくみつつ、中核と根拠地を設営しました。そしてこの長期かつ困難な闘争は宮本修正主義からの連合した攻撃をはねかえし、一九六六年末には基本的に勝利し、根拠地は完成しました。

 一九八〇年七月十五日、日本共産党の創立記念日であるこの日、東京で日本共産党(行動派)再建第七回大会が開催されました。大会は大武礼一郎の呼びかけにこたえて、日本共産党のプロレタリア革命派、共産主義者同盟(国際主義派)、階級的・行動派労働運動団体、青年同盟、婦人同盟、など革命団体と革命組織の代表数十名が出席しました。

大会は宮本修正主義と決別した真の革命的前衛党、行動派の党、日本共産党(行動派)の再建を高らかに宣言しました。

そして大会は『綱領』と『規約』を採択し、偉大な文献『新・共産党宣言』が大武礼一郎の手によって内外に発表されました。

 

徳田球一の党、プロレタリア革命派の党、行動派の党はここに再建されたのであります。


共同体社会を実現させている、ユダヤ民族とパレスチナ民族の先進部分が中東に形成した小さな共同体です。2024年2月23日付読売新聞は『共生50年、希望の村』との大きな見出しで、現在のイスラエル・ハマス戦争の最中にあって、何度も集まり、繰り返し話し合い、互いに協力し合い、仲良く共同生活を送っている事実を伝えています(記事全文は2024425日付人民戦線機関紙・2面に掲載)。

それは紛れもなく、コミュニティ共同体社会であり、小さくとも人類の未来にとっては大きな出来事であり、しかも50年も続いているのです。

まさに現代は、マルクスが予言した通り、コミュニティ共同体社会前夜の時代を通過しているのです。

 

指導的中核は「思想が物質的な力になる」という原理原則をよく知らねばならない。

 

以上のような歴史事実は何をわれわれに教えているのか。それはつまり、第一は「思想が物質的な力になる」というマルクス主義哲学原理の正しさであります。量より質であり、真の中核は一貫して原理・原則の旗を守り抜かねばならない、ということ。そうすれば必ず歴史が偶然性をその旗のもとに届ける。第二は真の中核、真の前衛は一貫して理論上(思想上)の原理・原則を堅持し、それにもとづいて正しい実践を展開しなければならない。「革命的理論に導かれた革命的実践ぬきに勝利はあり得ない(レーニン)」である。第三は最後はすべてプロレタリア独裁が決定する。このプロレタリア独裁は革命的前衛なしには存在しない。偉大なマルクス主義の党、偉大な共産主義の党、行動派共産党を一貫して追求せよ、です。

 

 結 語

 われわれは何者か。

 

 わが党は一般的(国際的)には正統マルクス主義の党であり、特殊的に(国内的)は大武思想の党である。それは国際マルクス主義運動の歴史、日本共産主義運動の歴史、そして現代の歴史時代がこのことを決定づけました。

 国際的には、フルシチョフが出現して「スターリン批判」を展開したその瞬間から、われわれは一貫して、これはマルクス主義の哲学原理に違反しており、そしてこれは早くからレーニンが警告していたとおり、まさにフルシチョフは修正主義的裏切り者であると断定、以後一貫してこれと闘ってきました。

 国内的には、日本共産党に宮本修正主義が出現、党の創立者徳田球一を否定したその瞬間から、ここに日本における修正主義があると断定、以後一貫してこれと闘ってきました。そして徳田球一が創建した「獄中十八年・非転向」という日本共産党の不屈の革命精神と革命的伝統を守り抜きました。日本共産党(行動派)歴史年表をみればわかるとおりです。

 中国における文化大革命が日本共産主義運動に刺激をあたえ、日本国内に「文革左派」が発生したとき、中国共産党のあるチームからわれわれに一定の要求(左派連合)があったとき、われわれはマ

状態を生み出し、その結果党内には野坂参三のような右翼日和見主義と裏切り者、田中清玄などのような「左」翼冒険主義者を引き入れてしまった。これらの「左」右の日和見主義と裏切り者によっていくつかの事件がひきおこされ、党は重大な損害をこうむった。 

 そして日本共産党の再々組織と正しい中央指導部の確立は、日本帝国主義の敗北と第二次世界大戦の終了、その結果としての徳田球一らプロレタリア革命派とその指導者たちの解放と出獄を待たざるをえなかった。 

 

 ▼一九三三年六月九日 

  佐野学、鍋山貞親の『転向声明』 

 

 天皇制政府によるうちつづく日本共産党への大弾圧、逮捕と投獄、そして獄内でのテロと死刑のおどかし、これらの血の拷問に恐怖心をおこした党内小ブルジョア日和見主義の代表佐野学と鍋山貞親はこの日、連名で『転向声明』を発表した。 

 『緊急せる内外情勢を前にしてコミンターンおよび日本共産党を自己批判する』、『共同被告同志に告ぐる書』と題するこの声明は、日本には共産主義は不適当であり、天皇を中心にした大アジア主義こそ日本国民とアジア人の生きる道である、と書かれてあった。これは完全に敵への降伏であり、党と革命への裏切りであった。 

 だが、党中央で重要な位置にあったこの二人の転向声明は、党内に存続していた〝提唱派〟と右翼日和見主義分子に大きな衝撃をあたえた。そしてこれらの小ブルジョア分子は佐野と鍋山につづいてぞくぞくと転向を声明し、ここに、世界の革命運動史上にもまれな、一大〝転向運動〟が発生したのである。 

 当時の司法省の発表によれば、その後一ヶ月のうちに、未決囚の三〇%、既決囚の三六%もの共産党員が転向を上申した。そして三年後には治安維持法による被逮捕者のなかの七四%もの人が転向してしまった。 

 この事件は日本共産党の歴史上忘れることのできない大きなキズあとであった。 

 そして徳田球一とプロレタリア革命派だけがただひとり、断固として転向を拒否し、階級的良心を守り、民族と人民に忠誠を誓い、党と革命を信じ、マルクス・レーニン主義の原則を堅持して闘ったのである。 

 徳田球一の獄中十八年の非転向こそ、日本共産党プロレタリア革命派の輝かしい、そして偉大な、誇るべき赤旗であり、プロレタリア革命派が断固として継承しなければならない伝統である。 

 

 ▼一九四五年十月十日 

  徳田球一らプロレタリア革命派幹部の出獄 

 

 この年の五月八日ドイツが無条件降伏。八月十五日には日本帝国主義も無条件降伏。第二次世界大戦は終わった。 

 日・独・伊のファシズム国家に反対して連合したソ・中・米・英を中心にした連合国の〝反ファシズム解放戦争〟は偉大な勝利をもって終わった。 

 こうした背景のもと、十月十日に徳田球一は他の同志らと共に、日本共産党プロレタリア革命派中ただ一人の指導者として生き残って出獄した。 

 徳田球一はすでに獄中においてプロレタリア革命派の主な活動家と協議しつつ作成していた政治文書『人民に訴う』を発表、休むひまもなく公然たる階級闘争と党の再組織にとりくんだ。 

 

 ▼一九四五年十二月一日―三日 

  日本共産党第四回大会開催 

 

 出獄したプロレタリア革命派の代表徳田球一の指導のもと、日本共産党第四回大会が、はじめて東京で合法的に開かれた。 

 大会は徳田球一の政治報告を全面的に承認し、徳田球一を党首(書記長)に選び、革命的行動綱領を採択した。 

 ここに日本共産党は、はじめて公然たる、大衆的な、合法的前衛党として再組織された。そして『三・一五』『四・一六』の大弾圧で壊滅した党中央と党組織を完全に再組織した。 

 歴史は一貫して徳田球一とその日本共産党(行動派)こそが日本革命と日本共産党の偉大な赤旗であったし、一貫して正しかったことを証明した。 

 そしてまた、徳田球一亡き後はそれをひきついだ大武礼一郎とその路線こそが常に正しかったことをいくたの歴史的事実によって証明した。 

 ◎歴史の流れをかえることはなにびとも不可能である! 

 ◎マルクス・レーニン主義は不滅であり、不敗である! 

 ◎日本共産党は不滅であり、不敗である!

  ◎日本共産党(行動派)の偉大な歴史万歳!

 

 

徳田球一と日本共産党の革命的伝統を断乎として継承する正統マルクス主義の党、日本共産党(行動派)! 

 

 一九五五年七月二十九日、日本共産党はこの日に第六回全国協議会を開きました。スターリンはすでに死亡、徳田球一も一九五三年十月北京にて死去、その後の党は野坂参三が中心になり、志賀義雄と宮本顕治が協力して、ソ連共

 


世界はマルクスの予言通りになる」と語った立花隆氏に続き、第2・第3の「立花隆」が出現し、次々とその正しさを証明している。

 

 われわれが明らかにしている現代の歴史時代「資本主義の崩壊は新しい時代としての、コミュニティ共同体から社会主義へは、歴史科学の法則が生み出す必然性であり、現代世界のあらゆる政治・社会現象はそのための偶然性である」という認識は理論的にも、実践的にもその正しさが証明されています。

 

 二〇一三年二月号の『文藝春秋』に立花隆氏が一文を発表し、「マルクスの予言がそのとおりになる可能性がある」と断言しました。翌月の同じ『文藝春秋』で読売新聞の最高幹部である渡辺恒雄氏が「マルクス主義の復活?バカいうな」との論文をわざわざ発表して立花隆氏に反論しています。マスコミ、新聞界のドンと言われる渡辺氏までもがマルクス主義の批判を始めたこと、実はこの事実こそ〝マルクス主義は歴史の必然性である〟との科学法則の正しさを見事に証明しています。

 

 マルクスは「共産党宣言」の冒頭、次のように言っています。「一つの妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪が。ヨーロッパ各国はこの妖怪を退治しようと神聖な同盟を結んでいる」と。それほどまでに共産主義がブルジョアどもに恐怖を与えている、と。渡辺恒雄氏が「…バカいうな」と腹を立て怒るほどブルジョアどもは恐怖におののいているのであります。逆に言えば、歴史はそれほどまでにマルクス主義を求めている証拠であります。

 

 立花隆氏が「よみがえるマルクス」との表題で「世界はマルクスの予言通りになる」との根拠にしたものは、アメリカの各情報機関を一つにした「情報会議」のレポートでした。二〇一二年十二月一〇日、その情報機関は世界情勢についてのレポートを発表しましたが、その中で「アメリカが世界をリードする時代は終わった。国家間の格差は広がり、紛争はますます増大し、グローバル化によって階級闘争は深まっていく。これはマルクスが予測していたことだ」と、内外にそのレポートを公表したのであります。

 

 立花隆氏はこの情報機関の分析に衝撃を受け、資本主義の本質は昔も今もマルクスが『資本論』で述べた通りであり、「マルクスの予言通りになる」との可能性は大きいとの見解を『文藝春秋』に発表、渡辺恒雄氏はそれにご立腹、「バカいうな」と嚙み付いたのであります。

 

 立花隆氏は亡くなりましたが、第2・第3の立花氏が出現し、戦争だらけの現代の時代にあって、内外の先進的知識人は次々と科学的歴史観を語っています。

 

最近では、『戦争と人類』(ハヤカワ新書)を著した、イギリスの軍事史研究家で、王立陸軍士官学校の講師を務めた、グウィン・ダイヤー氏がいます。氏は、巨視的な歴史把握に基づいて、狩猟採集や農耕や遊牧といった社会経済上の変化、国家の形成と拡大、それに国際秩序の成立を、戦争の進化と一体的に論ずべきであるとし、本書の結論を、『次の何世代かをかけて私たちがやらなければならないのは、独立した国家から成る現在の世界を、真の国際共同体のようなものに変えていくことだ。そうした共同体を作るのに成功すれば、そこがどんなに論争が絶えず、不満が多く、不当行為に満ちていても、戦争という古びた慣例を実質的に排除することができるだろう。そうすれば、ようやく一息つける』と締め括っています。

マルクスは『経済学批判・序言』の中で、「人類は初めて一息つける。そして人間社会は前史を終え、宇宙との戦いがはじまる」と語っており、ダイヤ―氏の結論は、その本質において、マルクスの科学的世界観・哲学思想と完全に一致しています。

 

また、ダイヤ―氏のこの書について、防衛研究所安全保障政策史研究室長の塚本勝也氏は、2024113日付日経新聞の書評欄において、次のように述べています。『人類の破滅を招く戦争を防ぐにはどうすればよいのか。それには、現在のような独立国家からなる世界を、真の共同体へと変化させるべきだと著者は言う。…戦争という負の遺産を捨て去り、人類が共存できる未来をめざせるのか。著者の指摘する危機的状況を踏まえると、その問いに答えを出すために残された時間は、我々が思うより短いかもしれない』と。軍事・防衛問題の専門家である塚本勝也氏の言であり、傾聴に値します。

こうした現代の知識人・専門家の相次ぐ発言は、立花隆氏が語った「世界はマルクスの予言通りなる」の言葉の正しさを、科学的歴史的事実によって裏付けているのです。

 そして、注目すべきは、この国際共同体の「成功モデル」が既に歴史によって提起されていることです。それが、民族主義が跋扈するこの現代社会にあって、見事な共同体社会を実現させてい


ルクス主義の理論上の原則にもとづきこれを拒否しました。その後の歴史はわれわれが正しかったことを証明しています。

 そして今日、イラク戦争が発生した時、この帝国主義戦争はアメリカ帝国主義を崩壊へ導くだろうと予告した。こう主張したのはわれわれだけであったが、現代の歴史がその正しさを証明しています。

 われわれは常に、一貫して、正統マルクス主義とその理論上(思想上)の原理、理念、原則を守り通し、それを止揚しつづけました。マルクス主義の歴史と現代史がわれわれの正しさを立証しています。そしてこれらの闘いと運動においては常に大武礼一郎を中心に全党が統一し、団結し、結束しました。ここにわれわれの誇り、われわれの確信と信念があります。そしてこのような歴史が、科学的証明として「わが党は正統マルクス主義の党であり、大武思想の党である」ことを決定づけたのであります。

 今日の歴史時代は、アメリカ帝国主義の崩壊と、資本主義の終焉・世界史の転換という巨大な爆発と収れん期にある。それは必然性をもってマルクス主義の復権と、社会主義の再興を求めている。今日すでに内外にその兆しが見えている。この運動はいくつかの偶然性を経て、必ず、大武礼一郎が発表した〈学習のすすめ〉とその内容、マルクス主義に関する根本原理・基本理念・理論上の原則に向かって収れんされるであろう。

 

▼われわれは正統マルクス主義者である。われわれはその日本における唯一の党、大武思想と行動派党である!

▼われわれは哲学・科学の統一された絶対的真理を堅持した、人民と歴史の進路を導く灯台、羅針盤、道しるべである!

▼われわれは歴史の要求と、人民の要求と、運動と闘いの要求にもとづいて存在しているのであり、歴史が必然性に到達するまで存在し、運動し、闘いつづける!

▼われわれの思想信条は、マルクスが愛したあの言葉「汝の道を行け、人には語るにまかせよ」である!

▼われわれは歴史の中から生まれ、歴史と共に存在し、歴史と共に永遠に不滅である!

▼日本共産党(行動派)の革命的伝統万歳!

▼正統マルクス主義・大武思想万歳!

       (以上)