2024年8月25日 №540

2024年8月25日 №540

《歴史は科学であり、法則通りに進む》


 

現代ヨーロッパで起こっている政治事件、最近のフランスにおけるその顛末はマルクス主義の復興、ヒトラーを倒したレジスタンス運動、レジスタンスと言えば共産党、このような革命的前衛政党の出現が待望されている証である。歴史はこれを求めてやってくる!

 

 

宇宙(自然科学)はビックバンによって誕生したが、歴史科学の世界でも同じ原理が作用する。ロシア革命ばかりか、歴史上の革命と名の付くものを見ればわかるとおりである。すべては力と爆発が作用している。議会や選挙は全くの無力である!

 

ヨーロッパは民族主義の嵐にさらされている。6月の欧州議会選挙(EU)で、いっそうはっきりした。とくにマクロン大統領の与党連合が、右翼政党「国民連合(RN)」に大敗した事件はフランス社会に大きな動揺をもたらした。

マクロン大統領は唐突にも議会の解散・総選挙に打って出たが、結果は仏メディアの予想通り、大敗北であった。第一回投票でも欧州議会選同様、右翼的な「国民連合」が第一党になり、マクロンの与党連合は、左派連合にも後れを取り、またしても大敗北したのである。

 マクロン大統領は、七月の決選投票では、反「国民連合」で「禁じ手」と言われた左派連合と提携し、選挙協力を武器に、勝負に出たのである。その結果、国民連合を最下位に引きずりおろしたものの、今度は左派連合が第一党になり、最大勢力となったのである。マクロンの与党連合は二番手に終わった。

 選挙に勝った左派連合は、第一党になったとして大統領に、首相の指名を強く求めたが、拒否された。フランスの憲法では大統領が外交と安全保障を、首相が内閣を組織して内政を担当するという制度である。それでもマクロンは左派連合には『極左の「不屈のフランス」や共産党がいる』として、指名を拒否し、従来の首相がなし崩し的に、引き継いでいるが、事実上、内閣は不在のままである。その理由が「どの勢力も単独過半数に届かなかった。つまりは誰も勝てなかった」という理屈で、大統領の職務を放棄しているのである。

 フランスは大混迷である。二十六日、「パリ五輪」の開幕に合わせ、仏TGV(高速鉄道)の大規模な破壊事件が起こったが、これはフランスの混迷や政治不信への怒りの大爆発である。世界で、現代資本主義は統治能力を失ってしまった。今やオリンピックさえ安全ではなくなった。共同体的コミュニティ社会が求められている。

 フランスの混迷、無力で無節操なマクロン大統領、この根源はどこにあるのか。歴史が、この命題に回答を下している。1958年に発生したフランスにおけるドゴール独裁権力が出現したとき、無能な中道連立政権であった当時のフリムラン内閣が「私を支持している中には共産党の145票があり、共産党は本当の支持票ではない」と宣言し、総辞職、内閣を投げ出して、ドゴールに政権を明け渡してしまった事件はその象徴である。現在のマクロン大統領の無力性は形は違うが本質は全く同じではないか。今も昔も同じことが起こっているのである。歴史は科学であり、同じことを繰り返すのである。これは何もフランス固有の問題ではない。現代資本主義、多くの先進諸国の中で起こっている共通の問題である。歴史が求めている共産党とは何か。

第一、真の共産党は、第二次世界大戦中のフランスでナチスの占領からパリを解放したあのフランス共産党のことである。日本では「獄中18年」非転向を貫いた徳田球一が出獄、21ゼネストをはじめとするあの戦後の高揚を戦った日本共産党のことである。

第二、現在、フランス共産党も日本共産党も共通してみな議会主義に転落し、戦うことをやめ、選挙の票ばかりに熱中している。だからフランスで左派連合が選挙に勝っても逆にバカにされ認めない。日本でも同じで共産党と連携すれば「票が逃げていく」とバカにされている。名は共産党でも戦いを忘れた結果、軽く見られているのである。

 第三、マルクスは名著『共産党宣言』の冒頭「ヨーロッパに妖怪が徘徊している。共産主義という妖怪が。ヨーロッパの強国で、この妖怪を退治しようと神聖同盟を結んでいる」と書いているが、マルクス主義を放棄した結果、今ではブルジョアどもにとって共産党は恐怖の対象ではなくなった。

 革命とは権力をめぐる争奪戦であり、権力奪取の大事業である。歴史が証明する通り、選挙と議会主義の党では絶対に勝利しない。だから歴史がマルクス主義の復興と革命的前衛政党の出現を求めているのである。内乱と蜂起こそ唯一の階級闘争である。それはロシア革命が証明し、フランスではパリを解放したレジスタンス運動、日本では60年安保闘争の教訓が証明している。歴史がマルクス主義を求め、ロシア革命の教訓を求めてやってきているのである。マルクス主義の復興、ボリシェビキ的前衛政党の建設は、歴史の必然である。

 われわれ前衛や、中核的リーダーは、ドゴール独裁に道を譲った一九五八年の政治的教訓をよく学ばねばならない。われわれは歴史の証言として、次の記録をここに発表する。歴史は科学である。

 

一九五八年に発生したフランスにおけるドゴール独裁権力の出現はヒトラーを生み出したワイマールと同じように、議会主義的クレチン病が原因であった。歴史の記録を見よ。

 

ヘーゲルは歴史上の、大人物は二度現れるといった。一九三三年のドイツにおけるワイマールがヒトラーを生み出したように、一

九五八年のフランスにおけるドゴール独裁権力の出現は、姿や形は違っても、その本質はまったく1933年のドイツと同じであった。

 

われわれは改めて、この二つの大事件に共通している議会主義という自由主義的民主主義の本質を、具体的事実を通じて認識しなければならない。

 

 マルクスはかつて「階級闘争の戦略・戦術に関しては、フランスから深く学ばなければならない。この面に関してフランスは宝庫である」と語った。フランス大革命と「人権宣言」がそうであり、ナポレオン帝政と「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」がそうであり、「パリ・コミューン」がそうであった。そしてここに記録した一九五八年の事件もそうである

 

 フランスにおける第二次大戦後の国民議会で特徴的なことは、常にフランス共産党が第一党であった、ということである。一九四五年十月に実施された第二次世界大戦終了後の総選挙では共産党・一五二議席、社会党・一五一議席、人民共和派・一三八議席、であった。一九四六年十一月の選挙では、共産党・一八六、人民共和派・一六六、社会党・一〇三であった。なぜ共産党は常に第一党だったのか。それは歴史が生み出したものである。

 

 一九四五―六年の総選挙といえば、第二次世界大戦の直後である。第二次世界大戦中のフランスといえば、ナチス・ヒトラーの占領下におけるあの有名な「レジスタンス(抵抗)運動」を知らぬものはいない。数々の物語に、映画に、演劇に、小説に、詩に、その英雄的で、愛国的で、悲劇的な闘いと運動は、全世界に感動をよびおこした。ルイ・アラゴンの『フランスの起床ラッパ』は世界の若者たちに、祖国と民族のために死すことの美しさを教えた。そして「レジスタンス」といえばそれはフランスの労働者階級であり、それはフランス共産党であった。フランスが敗れ、ナチスの手先としてペタン元帥のヴィシー政権が樹立された一九四〇年の末から、フランス全土に反ナチ抵抗運動がおこり、それは「闘争(コンパ)」「解放(リベラシオン)」「義勇隊(フランス・ティエール)」「国民戦線(フロン・ナシオル)」、あるいは「マキ団」などという各種の抵抗組織が生まれ、これには労働者も、農民も、商工業者も、政治家も、学者も、教師も、生徒も、婦人も、青年も、軍人も、官吏も、共産主義者も、カトリック僧侶も、自由文化人も、すべてのフランス人が参加した。ナチスの支配下にあっては、このレジスタンスに参加することは死を覚悟しなければならないものであり、報いられるものはなく、求められるものは苦難以外の何ものでもなかった。目の前には拷問と死刑がまっているこの闘いに参加させたもの、それは「自由と人間性と祖国のために」であり、「ひざまずいて生きているよりは立って死ぬ」という民族的良心と人民的怒りであった。そして重要なことは、このレジスタンス運動の最も困難な部署を受け持ったもの、それはフランス共産主義者であった。だから最も犠牲の多かったのが共産党であり、この党は当時「銃殺される者の党」とよばれていた。レジスタンスの犠牲者三万、ドイツの収容所へ送られた者十五万、帰国できた者はわずか四万にすぎなかった。

 

 やがて一九四三年二月、スターリングラードの攻防戦でドイツ軍が敗北、戦局はナチスの崩壊へとすすむ。これにあわせてレジスタンス各組織は団結・統一して、ここに『全国抵抗評議会(ソビエト)』を結成、一九四四年二月には武装した民兵によるフランス国内軍を編成した。一九四四年八月から全フランスは労働者のゼネストに突入、同時にパリは武装蜂起へ。八月二十四日、パリは連合軍と国内軍によって解放された。フランス解放は外からの連合軍、そして国内でのレジスタンス。レジスタンスは共産党。この空気は戦後のパリにおける映画館で、ニュース映画にスターリンが現れるや、場内は熱狂と大歓声につつまれたというエピソードがよく現していた。こうしたなかでの戦後の総選挙であったのだ。ゆえにフランス解放の最大の英雄、レジスタンスの英雄、フランス共産党が第一党になったのは当然ではあるまいか。

 

 こうしたなかで一九五八年がやってきた。当時第四共和制下フランス国民議会は、第一党がフランス共産党・一四八議席、第二党は急進社会党・九九議席、第三党は社会党・九六議席、第四党は人民共和派・七三議席で、以上が左翼を構成し、右翼には独立諸派・五九議席、プジャード派・三七議席、ドゴール派・一六議席、その他・五八議席、であった。

 

 そして第四共和政下の政府はみな弱体で、内閣が二十六回もかわるという状況であった。それは結局、中道政党による連立内閣が何もできない内閣で、何か重大な政治問題が発生するとすぐ分裂して崩壊していったからである。そのとき、もっとも革命的であるはずの共産党までが、議会主義に陥り、あるときは中道政党に引きづられたり、あるときは中道政党の連合のまえにボイコットされたりして、議会主義に陥ったにもかかわらず、議会の中ではいつも孤立していた。

 

 フランス国内で弱体内閣が右往左往しているとき、国外ではフランス植民地での民族闘争が高まり、つぎつぎとフランスは植民地を失っていた。そしていよいよ、フランスにとっては最後の植民地であるアルジェリア独立戦争が最後の段階に到達しつつあった。フランスの独占資本とブルジョアジーはアルジェリア植民地の支配権の保持、そのための本国における強力な政府の樹立を求めてドゴールの出場を早くから画策していた。だが、いくら選挙をやっても、議席の拡大にもとづく議会を通じたドゴール内閣の出現は不可能であった(ドゴール派はわずかの一六議席である)。独占資本にとっても議会はもはや無用のものとなった。

 ドゴールの独裁政権樹立のための実力行動、反革命的暴力、軍部と右派政治勢力の力によるクーデターは、いまやフランスにおける矛盾の集中地点たるアルジェリアではじまった。

 【一九五八年五月十三日】無能な中道連立政権たる人民共和派のフリムラン内閣が社会党や共産党の支持で組閣されたこの日、



 あくまでドゴール独裁政権の樹立を叫ぶ右派民衆と軍部が合流して、アルジェリアの首都、アルジェでは大規模なデモが発生、その中の急進的な右翼デモ隊の千人は、「アルジェリアはフランスのものだ」、「無能な中道政権ではなく、ドゴールに政権を」と叫びつつ、アルジェ政庁に乱入、略奪行為をほしいままにするとともに、ここを占領、アルジェ放送局も占領した。 

  デモ隊はそのあと「アルジェ公共治安委員会」の樹立を宣言。これはアルジェリアにおける唯一の政府であると内外に声明した。

 フリムラン首相は十四日、アルジェリア駐留フランス軍の総司令官・サラン将軍にアルジェの治安維持に関する全権を委任した。

 【五月十五日】公共治安委員会はアルジェだけでなく、アルジェリア全域に組織された。そしてこれらの委員会を一つにまとめ統合した機能を保持するアルジェリア公共治安委員会が発足した。本国ではドゴール将軍がようやく腰を上げ、この日はじめて記者会見し「国家が私を必要とするならばいつでも出馬する」という声明を発表した。アルジェ政庁前広場にあつまった五千人の民衆は、ドゴール将軍の出馬声明が発表されるや、〝ドゴール・ドゴール〟という大合唱をとなえた。社会党は「第四共和制の危機」をよびかけ、共産党は議会の招集を提案、フランス労働総同盟はゼネストの用意(用意だけだ)があると声明した。そして十五日の夜は社会党、共産党の議員は議会に泊まり込んだ(恐怖におののく日和見主義者のうろたえぶりをみよ)。

 【五月十九日】ドゴール将軍はパリに姿を現して多数の記者団を前に演説した。彼は、いまやフランスを救うことのできるのは私だけである。フランスは私に任せるべきだ。(どのようにして政権をとるのか、という質問にこたえて)、現在は誠に異常な時期にある、したがってまたその政権は異常な手続きによってのみ可能だ。その異常な手続きとは具体的には何か、ということは情勢が解決する、と語った。

 【五月二十五日】クーデター派のアルジェリア公共治安委員会スポークスマンは、ドゴール将軍の権力獲得を支持する運動は今やフランス領植民地の全体に波及したと発表した。フランス地中海艦隊のオーボーワノー司令官はドゴール将軍の権力獲得を支持する声明をアルジェリア公共治安委員会に送った。フリムラン内閣は、もはやドゴール独裁権力の樹立をめざして拡大されつつある公共治安委員会という名のクーデター権力をおさえることも、またこれとの妥協も不可能であることを知った。

 【五月二十七日】ドゴール将軍は声明を発表した。「自分は政権樹立のための必要な手段をとる。フランスの国軍は国家と私に忠実であることを信ずる」と。フランス共産党政治局は反ドゴールの闘いに決起するようアピールを発した。共産党系の労働総同盟は二十七日午後二時からストライキを決定したが、多くの組合はこれに同調せず成功しなかった。フランスの労働運動にはもはや、あの輝かしいレジスタンスの伝統も、革命的英雄主義も消えてしまった。そこにあるのは無気力と意気消沈した改良主義のみであった。それは結局、労働者階級の前衛党たるフランス共産党が革命性を喪失して社会民主主義に堕落したことにあった。

 【五月二十八日】この日の未明、第四共和制にとって実質上の最後の国民議会が開かれた。議会はフリムラン内閣が提出した憲法改定討議に関する決議案を賛成四〇八、反対一六五、の圧倒的多数で可決した。これはフリムラン内閣を信任してこの政府をあくまでおしたて、ドゴール内閣の出現を阻止しようとする議会の空気を反映したものであった。フリムラン首相はこの決議案が否決されれば総辞職する、と言明していたがゆえに、議会はフリムラン内閣信任、ドゴール反対、を表明したのである。ところがフリムラン内閣は、この決議案を支持した票の中には共産党の一四五票がある。しかし共産党は本当の支持票ではなく、自分はこれを認めない。したがってこれを差し引くと、この決議案は可決にはならない(可決の必要票は三分の二であった)。このように主張してさっさと内閣総辞職をしてしまった。フランスの第四共和制には、その憲法のどこをみても、共産党の一票を他の一票と区別するような項目は一つもない。にもかかわらずフリムランは憲法を無視し、議会主義を無視して第四共和制を破壊し、ドゴールへの道を清めていったのである。コティ大統領はこのなりゆきをみつめつつ、フリムランの辞職が決定的となったとたん、直ちに大統領官邸当局のコミュニケとして「大統領は二十八日夜までには新内閣の首班たるべき人の訪問を求めたいと希望した」と発表した。待っていました、というばかりである。

 

【五月二十九日】コティ・フランス大統領は午後三時、国民議会に対して次のような特別メッセージをおくった。「私はドゴール将軍にこちらに来て政権について私と協議するよう要請する。いまやわれわれは内乱の一歩手前にきている。双方の陣営がいま兄弟互いに殺し合うような闘いの準備をしているようにみえる。これを救うのはドゴール将軍だけである。もしドゴール将軍のもとで政府をつくることができなかった場合には私は辞職する」。夜になってドゴール将軍はコティ大統領と会見、大統領の組閣要請についてドゴールは「私の政府は現在の重大な事態に対処するに必要な全権限を一定期間与えられるべきであること。また私の新政府は憲法改定、その他必要な法律の改定についても議会ではなく、直接国民投票に問う権限をあたえられるべきである」と答え、コティ大統領は無条件にこれを承認した。 

 

 

【六月一日】フランス軍の決起、アルジェ公共治安委員会の総動員による本国への上陸、右翼と軍のクーデター、などのうわさに、国民議会は浮き足立っていた。フランス国民の大多数と議会の多数は「クーデターか、人民戦線か」、あるいは「ドゴールか、共産党か」の二者択一をせまられた。そしてその結果、民衆と議会の多数は、クーデターにおびえ、軍の決起による国内の混乱におびえ、「必要悪」として共産党よりもドゴールを選ぶ決心をした。

 こうして、午後七時半、議会は、議会外の重圧のなかで開会、ドゴールを、賛成三二九票、反対二二四票、という票決のもと、首相とみとめた。もちろんこの票決にあたってドゴールは、「六ヵ月間の間にすべての全権を付与すること。憲法を改定してこれを国民投票にはかる権限を付与すること」など、独裁的機能を自分に与えるよう求めていた。したがってドゴールへの信任はすべてこれらの全権をドゴールに与えることを意味した。これはまぎれもなき、議会のドゴールへの屈服であった。そしてドゴールは何をしたか。六ヵ月間の全権をにぎった彼は、やがて新憲法「ドゴール憲法」を作成し、これを議会にはかることなく国民投票にかけた。九月二十八日の国民投票は賛否およそ四対一の多数で新憲法を承認した。こうして一九五八年十月五日、第五共和制が発足、ドゴール時代へと進む。この時代はまさに「近代的帝政」の時代であり「ドゴール君主制」の時代であった。選挙法も改定された。十一月のドゴール支配下の総選挙では中道左派のマンデスフランス、ミッテランも落選、第四共和制下ではいつも第一党、第二党を保持していた共産党もわずか一〇議席に転落、以後フランス共産党は再び第一党にはなれない。ブルジョア独裁の実力による勝利であった。

 なお念のために付け加えておきたいことは、フランスの出来事は何もフランス独特のものではなく、同じことは、形を変えて、一九七六年のイタリアでもおこった。イタリアではこの年の総選挙でイタリア共産党が第一党になったが、いつも様々な妨害で政権は取れなかった。

 

結 語

 

アメリカの一極支配は完全に終わり、世界はバラバラになった。さまざまな民族主義が暴れまわっているが、ファシズムは歴史的には終わっている。ファシズムか、人民戦線(革命)か、世界は共同体的コミュニティ社会へと前進する。

そしていま、歴史が求めている人類の世界、人間の社会とは、まさに大衆社会、人民の世界、人間性社会であり、人民の・人民による・人民の政治と国家であり、階級なき国家、近代コミュニティー社会である。

人民大衆を主体とした国家と社会こそ本当の民主主義、真の自由と平和の国家と社会である。それを保障するのは、直接民主主義の制度たる評議会である。人間欲望の自由放任主義にもとづく投票制度と議会主義という自由主義的民主主義はブルジョア政治の見本である。人民大衆にとっては、真の協力・共同・連帯・人間性あふれる自覚されたコミュニティー社会こそ、戦争のない本当の平和社会である。       

 

 

(以上)